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​​第十六話

第十六話: ⑨

二度と取り戻すことがないよう、記録媒体もすべて葬るべきだっただろうか。その方が正しかったのだろうか。
それでも、どうしても処分出来なかった。失くしてはならないと思った。あれだけはいけないと、そう思った。
僕の行動は矛盾している。

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《____Sにて》

マップ上、いっとう目を引く塗り潰された地帯。Sと呼ばれるこの区域は建物と建物の間や裏にひっそりと位置している。

第十六話: テキスト

陽が射し込むことのない路地がSに繋がる入口であるようで、彼らは今、その目の前にいた。

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第十六話: 画像


「この奥っすね!行きましょっか、ペッタン、アイくん」

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「行きましょう!わ、ワクワクしますね〜!」
「うん。ふ、二人ともごめん、僕が行ってみたいなんて言って、付き合ってもらって……」
「わはは!謝るようなことじゃないっすけど……どういたしましてなんですかね?」

誰ともなく手近な船員に声をかけ三人集い、さあどこに向かおうかと行き詰まったとき、Sに向かいたいと手を挙げたのは、意外なことにアインスだった。その裏に、アインスにとって家族のようにも思える船員たちの、役に立ちたい、ためになりたいと必死に自らを主張しようとする思いがあったことは告げていない。マップ上、明らかに異質なそんな場所に自らが向かうことで、何か、得られるならば、危険に曝されようと構わなかった。ただそれに、二人を巻き込んでしまうつもりは無かったのだ。ここに向かいたいと零した瞬間に、二人にも危険を冒させてしまうかもしれないと気がついたのだが、持ち前の瞬発力で即座にGOを出したシンシアに撤回もままならず、今に至っている。

路地の奥には空間があるようだが、進まなければその全貌は捉えられない。アインスは一度路地を作り上げる両側の建物を見上げ、シンシアに続きSへと踏み入れた。

路地を越えた先、そこは昼間であるのにも関わらず薄暗く、淀んだ空気が漂っている。埃っぽい空気は喉にへばりつくようで、アインスは思わず、ひとつふたつと咳をした。
目線の先では、背の低い屋台のようなものがずらりと並んでいる。雨除けだろうか、木材の端切れを連ねただけの粗末な造りをした屋根がひとつひとつに取り付けられていた。屋根の下はすべて同じかと思えばそうでもないようで、簡素な机が設置されていたり、カゴがいくつか並んでいたり、地べたに御座のようなものが敷かれていたりとまちまちだ。共通点と言えば、机やカゴ、御座のどれであっても、その上や中に、使用用途も分からない何かがあることだった。整然と並べられた物品の数々に、ペスタは思い当たる節があるようだ。

「お……お店?ですかね?」
「お店?」
「あっ、いえ、わかんないです!知りません僕!」

ペスタのぎこちない様子にアインスは首を傾げたものの、彼女の言う「お店」は腹にすとんと落ちたようだ。納得したように頷いて、商品と思しき品々を眺めている。

「アイくん!ペッタン!これ、なんか他と違いますよ!」

知らぬ間に奥へと進んでいたシンシアが二人を呼ぶ。声に応じてシンシアの元へ向かえば、彼の前には何の変哲もないひとつの屋台があった。

「シンシアさん、何かあったんですか?」
「いや、逆です。何もないんすよ、机の上。他と同じように並べてみろってことですかね?」
「試しに置いてみます?僕ちょっと隣から取ってきますね!」
「盗むことにならない!?」
「だあれもいないんだから大丈夫ですよ、多分!」

焦るアインスをよそに、ペスタが隣のカゴからひとつ手に取り件の屋台に置く。形は果物に似ていて、とても軽くて、カラカラと音が鳴る何か。三人、じっと眺めてみるが、この屋台も隣にも特に変化はない。

「何も起きませんねぇ」
「っすねぇ。いろんな所から集めてみますか」
「い、いいのかな……」

散り散りに、他の屋台へと向かう。そばを物色していたシンシアがふと例の屋台を振り返れば、置いたはずの何かは姿を変えていた。

「……ペッタン!置いたのってこんなんでしたっけ?」
「呼びました!?隣のとこのカゴに同じ物ありますよ!え〜っと、……え?なんですかこれ、布?うわ固っ……丸めた布の置物?え?なんですこれ、僕が置いたの全然違いますよ。……アインスさん要ります?」
「え、ええ?いらない……」
「……試してみましょうか!色々置いたら結果変わるかもしれませんし、ここ、なんかたくさん物ありますし。やってみろってことっすよ」

入口付近の品を置いてみたりだとか、量を増やしてみたりとか。様々なことを試して、この屋台について分かったことがいくつかあった。
置いた物品は、全員が目を離した途端に変わる。誰かが見ているうちは少しも変わりやしないのだが、一瞬でもそんな間があれば、文字通り瞬く間に奪い去られ、代わりの物がそこにある。数を置いても同じ数だけ戻ってきたりはしなかったから、置いたものが姿を変えたのではないのだろう。すり変わっている。何によってそんな事態が起こりうるのか、理解出来そうにはない。
何を置いたら何が出るのか、いつからかつい楽しんでしまっていたが、これは探索だ。他に出来ることはないだろうかと、アインスが声を上げた。
 
「ここにある得体の知れない物置いて、だいたいは全然分からない物が返ってきてるけど……もし僕らの持ち込んだ物とかを置いたら知ってる物が返ってきたりするのかな?」
「やってみたいっすけど、置いたら多分もう返ってきませんよね。今持ってる中で、なくしてもいいもの……?うーん……」
「えーっと、じゃあ、途中に出てきた物のうち、僕らも分かったもの!どうですか?一個か二個ありましたよね?ちょっと物騒な感じの……あんまりよく知らないですけど、銃弾、みたいな。錆びてて、長いやつ……」
「ああ、たしかこの辺に……これかな?」
「それです!置いちゃってください!」
「ペスタ殿、遠くない?」
「もしその、弾丸を込める本体が出てきたりしたら……怖いので!!」
「う、たしかに怖いかも……」
「お?じゃあ俺置きましょうか?」

アインスから弾丸を受け取り、シンシアが躊躇うことなくそこに置いた。視線を逸らす。すり変わる。
ペスタが案じたように、銃身が横たわっている……なんてことは起こらなかったが、銃弾があったその場所には、"何か"がある。

第十六話: テキスト

「……あ、あー、……知ってるものになりましたね。これ、……ディスクっすよね?」

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第十六話: 画像

「……うん、そうみたい」

シンシアが手に取った中心に穴の空いたそれは、ヒビ割れ、赤が滲んでいるが、船員ならば皆間違いなく知っていた。使用用途だってわかっている。これは、誰かの過去で、記憶だ。

【ヒビの入ったディスクを入手しました。】


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《____リビングにて》

シレネという青年の顛末を見た。 そうは感じないのだが、彼はどうやら過去の自分だった、らしい。このままでは自分も同じ末路を辿るかもしれない。そう思って、人を避けた。関わりを持たなければ、期待をしなければ、信頼しなければ裏切られることもない。
そうしてヘデラは自らの意思で孤立した。当たり障りのないことばかりを言って、必要以上に踏み込まないようにして、日々を暮らしている。

近頃、「夜に会った」だとか「あの時間にあの場所にいた」だとか、身に覚えのない件について尋ねられることが増えていた。どこか変だと言われているのは分かっていた。そしてそれは自らがみなを意識的に避けていることを指していると思っていたが、どうやらそれだけではないようだ。心当たりをひとつふたつと数えてみるが、どれも的を外しているのだろう。

「ヘデラ!」

誰もが探索に出ている時間、船内のこんな廊下に他の船員がいたとは思いもよらず、気を抜いていたせいか肩が跳ねた。振り向かずともわかる。今、ヘデラが最も顔を合わせたくない少女がそこにいる。

「ローちゃん……」
「!……今ローちゃんって……じゃなくて、ヘデラ!時間いい?」

もしも、自分が知らぬ間に理想を押し付けていて、彼女にそれを裏切られてしまったなら。もしも、知らぬ姿に身勝手に失望なんかして、自分の世界からローレをなくしてしまったら。自分はシレネとは違うというのに、そんな疑いと考えたくもない未来が頭をよぎって、ひどく自分を嫌悪した。波風立てず、これ以上何も見ないで、知らないままで、自分の世界を壊さないためにただ現状を維持したかった。けれど、ローレはそれを許してはくれないようだ。真っ直ぐにこちらを見つめる瞳は、逃がすつもりは毛頭ないと語っている。

「……はい、大丈夫です」

ヘデラが笑顔を作って返事をすれば、ローレは安心したようで、ほんの少し肩の力を抜いた。腰を据えて話したいというローレに連れられ、二人はリビングの扉を開けた。

「まずはごめん、いきなり呼び止めて無理やり連れてきちゃって。……ヘデラ、ボクのこと避けてるのに」

ローレは、へらと笑ってみせる。無理に気丈に振舞っているのは明らかで、ヘデラはわずかに眉を寄せた。彼女にこんな顔をさせているのは、自分だ。

「なあヘデラ、キミは理由もなく人を避けたりしない。ボクもそれくらいは分かってるんだ。気持ちを尊重したいなって、そうも思うけど、その……」

ローレが言葉に詰まる。一度目を逸らし言い淀んでから、それでも真っ直ぐにヘデラを見た。言わなければ伝わらない、伝えたいなら言わなきゃならない。誰でもないヘデラへと伝わらなければ、意味が無い。

「……ボクは、キミの恋人だから。力になれるのならなりたい。……悩んでるなら教えてほしい。理由があるなら、教えてほしい。ボクさ、察するのとか苦手なんだ。知ってるだろ?ヘデラ」

混じり気のない澄んだ言葉は、嘘偽りないローレの本心だ。
ヘデラに、伝わるだろうか。ローちゃんと呼んでくれた目の前のヘデラになら、直感的に、伝わるような気がした。
ローレが感じ取れるほどの、他者を寄せ付けまいとする彼の警戒心が、不信感が、すこしだけ和らいだように思う。

「……少しだけ、考えてもいいですか?すみません、ローちゃんにそんな思いをさせるつもりはなくて、僕は、……僕のことしか考えてませんでした」

裏切られるかもしれないだとか、失望してしまう、あるいはされてしまうかもしれないだなんて、想像ばかりで悲観していた。目の前の、現実のローレは、ただ心からヘデラを案じ、こうして行動を起こしてくれている。それを疑うなんて、彼女に不誠実だ。
人を信用するのが恐ろしい。ヘデラに実感が無くとも精神はシレネの失敗を経験している、そんな気持ちは未だ強く残っていた。それでも、一生懸命に、こんな自分へ心を砕くローレの姿に、揺り動かされないほどヘデラの心は凍っていない。自分は、シレネとは違うのだ。
ローレがいつも、すぐ隣にいてくれる。これほど心強いことが、他にあるだろうか。

「!!も、もちろん!ボクはずっと待ってるから!えっと、無理やり聞きたい訳じゃないんだよ、辛いなら大丈夫だから……」
「気遣わせちゃってすみません。……ありがとうございます、ローちゃん。……なんか、動揺してます?」

ローレはヘデラの返事に驚いたようで、喜びを滲ませながらもところどころ声を揺らしている。ヘデラがそのことについて訊ねれば、バツの悪そうな顔をして、ローレが言った。

「……実はこれ、前にも話したんだ。カマかけるようなことしてごめん。伝わってなかったんじゃないかと思って、もう一回言ってみようって、シンと相談したんだ」

前にも、話した?

「ヘデラに直接言うのはおかしいかもしれないけど、なんか、あのときはちぐはぐだったんだ。ヘデラと話してる気がしなくて、ちょっと、怖かった。……覚えてる?覚えて、ないよな。ヘデラの答え、前と全然違うから」
「……そのときは、どう言ってました?」

背中に、這いずるような悪寒が走る。

「『なあローレ、お前はどこにも行かないよな。ずっと一緒にいてくれるよな、俺のこと、必要だって言ってくれるよな。』」
「……!!」
「一言一句間違ってない。しっかり覚えてるよ。……最初はローちゃんって呼んでたし、ちょっと口数が少ないくらいでそんなに違和感もなかったけど……さっきのこと言ったら、突然人が変わったように、ああ返ってきて。ボクは、これが理由なんじゃないかと思った。ヘデラ、正直に言ってくれ。……このこと、覚えてないんだよな?」
「ち……ちがう、僕じゃない、そんな、」

シレネ、みたいな。

これまでの違和感。点と点が繋がるように、全てに合点がいった。同時に、ヘデラとしてシレネが話していた、そんな記憶も一度に蘇った。蘇って、しまった。
いつか、シャルルと夜に会った。そのことを指摘されて不思議に思ったことを、ヘデラとして覚えている。シンシアに協力してもらったらしいローレと、先日、今したものと同じ話をした。肩を掴んで、ローレが告げたように、言った。この口から、この声で、言った。

「ヘ、ヘデラ?ごめん無理させたかな、ごめん、えっと」
「いえ、ローちゃんは悪くなくて、すみません、僕……」

気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
シレネが自分の中にいた。預かり知らぬところで生きている。
気持ち悪い、けれど。

記憶が蘇ると同時に、記憶を取り戻してからの、シレネの思いも流れ込んできた。彼はひたすらに裏切った人々を恨んでいた。裏切ったといえども、過剰なまでの理想を抱え現実とのギャップに裏切られたと感じたのみなのだが、彼はそれが分からない。裏切られた、その思いから来る反動か、シレネは、必要とされたい愛されたいと、陳腐な承認欲求に飢えていた。シレネにあったのはそれだけだった。ヘデラとしてでも良いから、承認欲求を満たすために、ただ愛してほしい。そんな感情ばかりが流れ込めば、ヘデラには、どこか彼が哀れにも思われた。
自己価値をそんなことでしか自覚出来ない彼は、周囲の人間を、承認欲求を満たすための道具としか捉えられていない彼は、ひどくちっぽけで、取るに足らないほどに可哀想だ。そう思った途端、すうっと熱が引いていった。

「……僕は、あいつとは違います。今、はっきり分かりました。」

シレネに影響された不信感さえなければ、ヘデラは胸を張って、自分は周りに恵まれていると言える。周りの人間を道具だなんて思わないし、理想を押し付けたりはしない。どこが彼と同じなのか。どうして彼と同じ末路を辿ることがあるだろうか。
そんなことは有り得ない。ヘデラはヘデラで、ヘデラにとって、シレネは全くの別人だ。誰が何を言おうと、これが、ヘデラの辿り着いた答えだ。

「ローちゃんやシャルルさんは、僕を心配してくれましたから。気がかりなことなんて、何もなかったんですね」

幸いシレネは、彼が「ヘデラ」であるときに意識を向けられる、それだけで満足するらしい。ヘデラに対する心配であっても構わないようだった。ヘデラがシレネの存在をはっきりと知覚した今、彼の中にシレネはいなかった。そのきっかけが、ヘデラが自覚したからなのか、シレネが満足したからなのか、真偽が定かになることはないのだろう。

「すみません、ローちゃん。避けたりなんかして。もうしません、大丈夫です」
「う、え?そ、それはすごく、嬉しいんだけど……今なんか、ヘデラの中で解決した、ん……だよな?」

第十六話: テキスト

「……結局ボク、何も出来なかったじゃん」

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第十六話: 画像

途端に憂いが消え、晴れやかな表情をするヘデラに、ローレは戸惑いながらも安堵する。拗ねたように言えば、ヘデラは笑う。久しく見ていなかった、心からの笑みだ。

第十六話: テキスト

「いいえ、全部、ローちゃんのおかげです。」

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第十六話: 画像

​「……今度しっかりお話します、多分、何が何だかって感じですよね」
「何が何だかだよ!もう、心配してたし、嫌われたかと思って……ボクも覚悟決めてちゃんと受け止めてさ、こう……懐の広さでも見せようと思ってたのに」
「僕もうローちゃんの長所なんて沢山知ってますよ」
「なっ……んかヘデラ、また変じゃないか……!?」

どこか得意げに目を細めた彼は、間違いなくローレの知るヘデラだった。
彼はきっと、ゆっくりと、それでも確実に、本当のことをローレに伝えていく。そのときローレが何を思い、何を告げるのか、知りうるのは当人のみだが、きっと、危惧していたようなことは起こらないだろう。
思い描いた悪い想像とはまるで真反対な未来図だった。ローレの思う何倍もヘデラは彼女に救われている。不意に、ローレを大切にしたいという思いが湧き上がる。これが、シレネには無かった、愛と呼ばれる感情なのだと思う。

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《____管制室にて》

シンシアたちは、終業時刻を前に帰船した。Sで拾ったディスクは相談の末船長に渡すことに決めた。浅はかにも自らの好奇心で覚悟もないままに見てしまう、そんなことが無いように。そのことを主張したのはペスタで、シンシアやアインスには青ざめた彼女の言葉を無下にすることは出来なかった。そもそも彼らだって勝手に見るつもりはなかったのだ、船長に渡しておくことに異論を呈する者はいなかった。

そうして今、管制室には、一人、船長がいた。
先程、これの持ち主には連絡をしたから、もうすぐこの管制室を訪れるのだろう。渡されたディスクに目を落とし、そっと瞼を下ろした。
なくしてはならないと思った。だからこそこうして世界の欠片を巡ることにしたのだが、あのまま事故に乗じて処分してしまった方が良かったのかもしれない。けれど、終わりを迎えて事実を知ったとき、自分のすべてを知りたいと願ったなら。そのときにそれが他人の手で跡形もなく消し去られていて、取り戻す機会も永遠にないなんて。自分のことを知るという当たり前が叶わないなんて、そんなことがあっていいだろうか。自分がしたことを棚に上げ、どっちつかずに都合のいいことばかり望んでいる。あまりにも虫が良い話だ。

「船長?」

もうすっかり身に染み付いた自分の呼び名に、入口へと目を向ける。これを、渡さなければならない。

「ああ、来てくれてありがとう。……これは、君のディスクだ。」

じっと手元を見つめ、瞬きを繰り返す彼に、トロイのときと同様、見ても見なくてもいい、もしも見るならば、誰かと見ても一人で見てもいいのだと伝える。

「見るも見ないもどう扱うかも、みんな君の自由だ。好きなようにしていいから、……君の選択の末、後悔することがなかったなら何よりだ。よく考えて選んでほしい」

彼が深く頷いたのを見て、船長はもう口を噤む。選択を妨げるつもりはない。
彼の行く末が、船員みなの行く末が、穏やかであることを祈る。

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《____1F廊下にて》

とうに日は暮れていて、船には探索を終えた船員たちが戻っていた。時間に追われるこの欠片の探索は、なかなか順調ではないらしい。もしかしたら、夜でなければ見つからないだとか、そんな事情もあるのかもしれない。団体行動が義務づけられる今、船員の多くは、たまの一人の時間を求めて個室で休息をとっているのだろう。自分もそろそろ部屋に戻ろうかと、無為にリビングで時間を潰すことをやめて廊下に出る。廊下には、自分のほかに人影は無かった。

シャルルが階段を降りていくと、遠くに見慣れた背中が目に入った。彼もまた個室に戻るところだろうか、まだ眠るまでに時間はあるだろうから少し話でもしようと思って、階段の上から声をかけた。

「ラズ!」

シャルルの声に、ラズは弾かれたように振り向いた。ラズはシャルルの居所を分かっていないようで、辺りを見回している。機敏な仕草がどこか愛おしくて、彼の元へ向かう。そうしてその顔を見て、言葉を失った。

「ラズ、お前……」
「…………シャルル……」

大粒の涙に濡れた瞳は光を反射して輝いているのに、綺麗だなんて、思えなかった。目元は痛々しく腫れていて、なんとか足を動かしここに来るまでにも長く苦しんだのだと、否応なしに悟ってしまった。彼の黒く淀んだ悲痛が肌を刺す。

「……どうかしましたか!わ……ラズは、……今はちょっと、一人でいたいので……ハグはまた今度でも、大丈夫ですか?」

シャルルを見た途端、会いたくなかったと言わんばかりに、一瞬、眉が歪んだ。それでも無理やり、取り繕えるはずもないのに笑おうとするラズに、シャルルは堪らず手を伸ばす。

「っ、やめてください!!」

手を振り払われる。明確な拒絶。
真綿のようにあたたかく優しい彼からの、いつだって愛を伝えてくれていた彼の、拒絶。それがきっと咄嗟のもので本心は違うところにあるのだろうと分かるのに、さあっと顔を青ざめさせた彼を見れば分かるのに、それでも頭は真っ白になった。

「……あっ、ちが、ご、ごめんなさいシャルル……!痛かったですよね、……ごめんなさい、私、頭を冷やしてきます」

今止めなければラズがもっと思い詰めてしまうだなんて分かっているのに、思うように喉は開かない。腕は鉛と成り果てて、足には杭が打ち付けられた。ようやく体が動いた頃にはラズはこの場を去っていて、今更手を伸ばしたところで、何にも届かず空を切るのみだ。
いつからこんなにも甘えてしまっていたのだろう。拒まれたことに身体を縛りつけるまでの衝撃を受けてしまったのは、そんなことは有り得ないだなんて、特別なはずの今を当たり前と捉えてしまっていたからだ。ラズが好意を寄せてくれるのも、自分が彼を愛おしく思うのも、当たり前のことではない。彼の涙を拭いさって、力不足かもしれないけれど救ってやりたいと思うのだって、彼の全部を受け止めてやりたいと思うのだって、きっと特別なことだった。
手を振り払った直後にラズが見せた、ひどく傷ついた表情が脳裏に焼き付いて離れない。自分があのとき何も言えなくなったことで、いっそう彼を追い詰めてしまった。打たれた左手がじんわりと熱を持つ。

ラズは個室に戻ったのだろう。寂しがり屋で、一人でいるのが苦手なのに、今も一人で。ラズはきっと、誰にも踏み込んでほしくはない。でも甘んじてそれを受け入れたなら、俺はお前を愛しているだなんて言えないよ。
顔を上げる。誰もいない廊下の先を見つめて、シャルルは固く拳を握った。

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《____シアターにて》

ようやくみんなと同じになれると思った。
ディスクというものの存在。それは船員や船長の説明で、ついこの間知ったばかりだ。みんなを変えていく要因がそれだと耳にして、何も知らないままの自分では、大好きなみんなに置いてかれているようで、言葉にはしなかったが本当は寂しかった。

船長に、ラズのものだとディスクを手渡された。聞けば、映るのは自分の過去だという。船長は、やりたいようにしろと、いつも通りに眉を下げて言ってくれたのだ。ならば心に従うままだと胸を躍らせ、彼はシアターの重い扉を引いた。ラズがシアターを訪れたのは、研修を除けばこのときが初めてだった。

壁際に並ぶ再生機器のどれを用いるべきなのか首を傾げ、程よい固さの上質な座席に体を沈めてみたりもして、一人、シアターを満喫する。
わくわくして、どきどきしている。辛いことがあるかもしれないとは、ディスクが話題にあがったとき、皆が口を揃えて言う言葉だ。だからもちろん、恐怖心もあるのだけれど、今、ラズの心では新しいことを知り、みんなと同じ立場に立てることへの楽しみが勝っていた。

すう、と長く息を吸って、逸る気持ちを落ち着ける。
姿勢を正し、スクリーンを見上げた。

____再生。

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____開演____


【××の返報】

愛している。未来のことを、希望に溢れた世界のことを。
そんな世界に生きられたなら、きっと、自分だって愛せるのだ。
自分のためだ。それだけだった。

祈りは時に、人を殺す。人々に平和と安寧をもたらし心の支えとなるはずのそれは他者を排斥する大義名分にもなりうるのだ、無価値な戦は終えるべきだ、と、いつか声高に語る誰かがいた。銃声や爆音のない静かな街であっても、もう声は聞こえないから、そんな命知らずはとっくの昔に死んだのだろう。もしかしたら手にかけたうちのひとつだったかもしれないが、覚えはない。奪う命の背景なんて一介の兵士に知る由もなく、知ったところで結果は変わらなかった。勝利を妨げる因子は処分すると、規律で定められている。
道も半ばの長い旅路、そこを歩く術や権利をこの手で断つ。残酷なことだと分かっていながら、ただ淡々とこなした。それが仕事で、義務で、望みを叶える一番の近道だったから。

望み。
私のそれは、15年と続く戦争を勝利で終えること。そうして訪れた、輝かしい未来を生きること。
叶ったならば、思い描く未来の自分になれるのだ。そこでようやく私は「今の自分」を愛して生きられるようになる。

世界に自分一人きり。今も昔も、ずっとそう思っている。
母親は物心ついた頃から行方知れずで、父親と言葉を交わした記憶はない。そばにいたのは、父が雇ったらしい、金を介した使用人ばかりだった。戦火にまみれたこんな世相で友人なんているはずもなく、広いはずの世界はこの両の腕で抱き締められるくらいに狭かった。
世界にひとり。自分は自分のおかげで生きていて、信用できるのだって頼れるのだって自分だけだ。それなのに、あまりに孤独な自分が哀れで惨めで、嫌いだった。自分のことを大切にしてやれるのも自分だけなのに、どうしたって好きなんてなれなかった。何が悪いんだろう。何が変われば、どうなったなら、自分は自分を嫌わないで済むのだろう。
子供心にそんな疑問を抱えて、そうして考えて、考えて。辿り着いた先には、未来があった。未来への憧れがあった。

戦争が終われば、自分も環境もみんな生まれ変わったら、自分を好きになれるかもしれない。
眩い世界に生きる自分を見てみたい。未来の自分を救いたい。
そんな未来への思いを、愛なんて名付けてみた。



第十六話: テキスト

私は、未来の【ストロ・フォン・ディメリ】を愛している。
憧れは愛として深く心に根付き、愛は、生きる意味を与えてくれた。

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第十六話: 画像

今、唯一愛することができるのは、そんな未来の自分だけだ。未来の自分を救うために、今を終えるために、やるべき事をやるだけだ。望みには対価や犠牲がつきもので、目の前で尽きゆく灯火だって、私にとってはこれからの自分への糧に過ぎなかった。合理的なこの国は反旗を翻す革命家だとか戦力になり得ない女子供だとか、不必要なものを次々削ぎ落として生きている。自分のために、他を犠牲に。私だけじゃない、国だってそうだった。それがこの国の普通で、当たり前だった。

戦を終えるまで作業をこなし、愛する未来の自分を救う。
それだけを目的に生きて、それだけを叶えるものだと信じていた。

人生には出会いがあり、それが岐路への道標となる。
私の道標は、戦において何の力も持たない、非力な母だった。

……

早急に身を隠し、止血しなければならない。溢れ出てしまわないよう必死に腹部を押さえつけ、暗く湿った路地裏へと飛び込めば、まあるく見開かれた瞳と目が合った。酷い怪我だと手を取られ、強引に民家へ引き込まれる。彼女が手際よく応急処置を終えたところで、声はようやく届いたようだ。からりと笑ってみせた女性は、クランと名乗った。

クランには、子が三人いるらしい。部屋の奥から覗く6つの瞳にそう問えば、もう一人、と腹を摩った。彼女は紛れもなく母だった。母が一人に、たくさんの子。合理的なこの国では、真っ先に取りこぼされる家族だった。

「……どうして、捨ててしまわないのですか?」

不思議に思い、問いかけた。子供がいるほど、親は苦しい生活を強いられるのに、どうしてそうして暮らしているのか分からなかった。驚いたように瞬いて、クランはほんのわずか逡巡する。ひどく穏やかな表情。自分が向けられたことのない、柔らかな親の顔で、言った。

「子供の成長には、親の愛情が必要だからね。私はこの子たちを愛してる」

愛情。愛してる。そんな言葉が気にかかり、少し、話を聴いてみたいと思った。続けて問いかける。

「親がいなくても、人間なら成長します。合理的ではありません……そうすることで、あなたになにか良いことがあるのですか?」
「ふふ、実はね、とっても良いことがあるんだ。」
「なんですか?」
「この子たちがね、私のことを愛してくれるの。与えたのが本当の愛だとしたら、愛情はかけた分だけ返ってくる。」
「……よくわかりません。返ってくる、とは?」
「……君は、貰えなかったんだね。返す場所もない。愛され方も、愛し方も知らないで生きてきた。」

愛し方も、愛され方も知らない。包み隠すことをしない彼女の、思いのままの言葉が鋭く胸に刺さる。愛する、その行為に方法があるのか。自分が考える愛とは、愛することとは、……未来への憧れは、それに当てはまらないのか。
思えば、他人にこんな話をしたのも、他人とこんなに話をしたのも、きっとこの時が初めてだった。クランはひとつひとつを丁寧に受け取って、そっと答えを与えてくれた。生まれて初めての対話だった。

「まだ何処にもいない、未来の自分を愛している……か。うん、素敵だと思う。自己愛は大切だからね。……でも、君のそれはズレてるよ。どうして今の自分と未来の自分を切り離すの?」

「昔も今も、そして未来も。みんな一人の君だ。ずっと君は、君自身だ。突然未来の君へと生まれ変わって、そいつを好きになるわけじゃない。ね、まずはさ、今を好きになろうとしよう。そうしないと、世界も君も変われない」


第十六話: テキスト

「君が何処にもないと思っているものは、ずっとここにあるんだよ」

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第十六話: 画像

辛い今は切り捨てて、未来を得れば幸せになれる。誰もがそう考える世界で、彼女は唯一、異質だった。子供を連れているのだって、今を愛そうとしていることだって、異常だった。けれど私には、そんな彼女が正しくも見えたのだ。

私は、自分のために生きてきた。そして私は、クランともっと話してみたいと思った。だから初めて規律を破った。勝利の障害となりうる因子、つまりは無益な食い潰しとされる母子のことを、報告することも処分することもしなかった。規律ではなく、初めて得られた対話の時間へと天秤は傾いたのだ。それはずっと変わらないまま、数ヶ月が経っている。

「こんばんは」
「こんばんは、いらっしゃい。ふふ、私、ストロに何を聞かれるのか楽しみになってきたよ」

週に一度ほど、町外れの裏路地を訪ね、脆い戸を叩く。そうして彼女やその子と対話する。じんわりと心地よい時間は、日々の小さな楽しみだった。世界は広くなって、自分や、愛なる不明瞭なもののことを、ようやく少し知ることが出来ているように感じる。

「クラン、この戦争は、どう終わるべきでしょうか」
「……どっちかが勝って終わり、じゃあいけないと思う。戦勝国にとっての愛すべき世界は、敗戦国には愛せない。人類みんなで、ありのままの世界を愛せたなら、同等の愛が人類に返ってくる。そうしてやっと、平和な世界、愛に満ちた世界になるんだろうね。」
「勝利ではいけないということですか?」
「……ストロはどう思うの?」

言葉に詰まる。

「これは私だけの考えだから、鵜呑みにするばっかりじゃいけないよ。ストロ。」

ただ、勝利だけを見ていた。そうして得られた先の未来は美しくて豊かで、そこに生きる未来の自分だって丸ごと愛することが出来るのだと、それだけを信じ、求めてきた。けれどその世界は、本当に自分が愛せるような、素晴らしい未来だろうか。半数の絶望を燃料に、残る半数が甘い蜜を啜る世界。そこは、素晴らしい未来だろうか。
クランの答えに、また自分が揺らいでいる。自分以外はどうなったっていいと、いくら犠牲が出ようと構わないと手を汚してきた自分が、まるで無関係な世界の半数を憚り、態度を決めかねている。
祖国の勝利は我が身の安寧を意味していて、これまで望んでいた未来そのものだ。しかし、私はこうして敗者の存在を認識して、彼らの人生を慮ってしまった。そんな世界でのうのうと生きる自分自身を、もう、好きになれるとは思えなかった。けれど、……。

「……まだ、考えていられる時間はあるのでしょうか」
「もちろん。ストロがしたい時に、したいことをしなよ。何をしてもいい、何にも縛られなくていいんだ。君は君だから」

非力な彼女が手を引いて連れてきてくれた、私の人生の岐路はもう目の前だ。道標は立ち止まり、私の行く末を見届けようとしてくれている。家族が如く、愛をくれた彼女。同じように、報いたいと思った。
愛を返したいと思ったのだ。
これが彼女の言う、本当の愛だと、「愛が返ってくる」ということなのだと気がついて、胸の底から喜びが湧き上がる感覚がした。ようやくあなたの愛が分かったと、これから愛を返していこうと訪ねたその日、日の当たらない陽だまりの家はもぬけの殻と化していた。

勝利を阻害する因子を処分した。
軍部の人間にとって日常に過ぎない、ただの作業。これが残酷なことだと理解している、だなんて、あまりに幼稚な勘違いだった。胸を抉る惨たらしい現実は、耐え難い痛みを伴うのだと、私はこの時初めて知った。
この時勢に上手く逃げ延び生き抜いて、決して諦めることなく未来を掴もうとしていた家族が、その存在を勘づかれてしまった原因は私だった。私が与えたのは、クランが与えてくれたようなあたたかい愛とは程遠い、愛した子を奪われ遂には自身の命も摘まれるという途方もない絶望だった。与えられた愛を踏みにじり、私が返したのはそんなものだけだった。本当の愛を私に教え、それを信じていたクラン。彼女のことだから、私を恨んではくれないのだろう。それが、ひどく辛かった。

したいときにしたいことをすればいいと、クランは言った。私は、クランやクランの家族に、愛を返したい。したいとき、したいことが出来ないならどうすればいい?わからなかった。でも、問いかける相手はもういない。
変わりたかった、もう少し、もう少しだけ早く。
愛を返したかった。危険に曝されると分かっていながら、軍部の人間を家族のように迎え入れてくれた彼女たちに。
なにひとつ果たせていない。何もできていない。あなたのために、私は、何か出来るだろうか。こんな自分は嫌いだ。嫌いだ、嫌いだけれど、あなたは好きになれと言った。なれなくても、その努力をしろと言った。
ストロに愛が降り注ぐ世界になるように、と、笑顔で祈ってくれていた。
嫌いだ。自分のことが、どうしようもなく嫌いだ。
けど、あなたのために。

変わることを決意した。彼女の思う世界を、愛することで愛が返る世界を実現させれば、クランが正しかったと胸を張って言ってやれるのではないかと思った。これが今、やりたいことだ。あなたに愛を返したい、そのためにまずは自分を好きになって、そうして、愛に満ちた世界を。全部を鵜呑みにするのではなくて、自分で考えた末の結果だ。あなたの言葉を胸に自分に問いかけ、そうしてやっと、決意した。
鵜呑みにしていないというのもまた彼女の言う通りに動いていることになるのかもしれない。もしこれを言えば、クランは声を上げて笑っただろう。

規律違反を犯した私には、処分を定めるための審問がある。上層部と直接対面し、声を上げられる絶好の機会だった。
和平するべきだ。終戦し、お互いを尊重するべきだ。そうすれば、誰もが幸せでいられる、誰もが望む未来を得られる。
この考えは異質だと誰もが言った。クランと初めて対話したとき、私だって、そう感じていた。けれど人は変わる、誰もがこんな考え方に納得出来る日が来ると、必死で主張した。それでも声は届かず、国に仇なす背信者だと、投獄された。

愛され方を、愛し方を知らなければ、世界は変われない。途方もない話だが、永遠の平和を得るためには世界に生きる全員が愛を知らなければいけなかった。
長く続く戦の最中、きっと人々の目は血で濁ってしまっていた。ならば、地道に、教えていくしかないのだ。そんなことを思えば、ふと、いつか街頭で終戦への望みを語っていた声が記憶の淵から呼び起こされた。きっと彼も、彼自身の信念のもと世界を変えようとしていたのだろう。少し世界を広くして、ほんの少し、人の声を聴く。それだけで、こんなにも見え方は変わるのだと知った。クランが教えてくれたことのひとつだった。
こんな鉄格子の中で、やりたいことも出来ずに生涯を閉じるなんて、それでは愛を返せない。何も成せていないこんな自分のことを好きになるなんて、到底出来そうにない。

足掻いてやる、生きてやる。
疲弊した看守の目を盗むことは容易で、私は声の届かない牢獄から抜け出した。戦の被害が大きいという国境に向け、ひたすらに走る。あそこなら、きっと皆が終戦を望んでいる。同じ思いの人がきっといる。軍を追われた身でも、生きられる。服も靴も煤けて破れ、酷い姿になっていただろう。私のそんな姿が幾分小綺麗に見えるほど、国境付近は荒廃していた。
鼻を刺すのは出処など探すまでもない腐敗臭で、思わず顔を歪んだ。所狭しと重なり合った死体の中、私は動くものを見た。死体の山を寝床にする、痩せこけた人間が多数いるのだと悟ったとき、切り捨て振り払い削ぎ落としてきた犠牲が形をとってこちらを見ているような気がした。
吐き気を堪え、一人、また一人と声をかける。そうして、語り、伝えた。終戦への思いを、その先の未来のことを。けれど、返る答えはどれも同じだった。ここに立ち込めるのは淀んだ憎しみや敵意ばかりで、愛なんて欠片すら落ちていない。過去への執着と復讐心に身を焦がす人々の中で、未来を語る私は異常者だった。

誰にも、伝えられていない。誰ひとり、愛を知ろうともしない。いつの間に世界は、こんなにも枯れ果ててしまったのだろうか。
脱獄し、声を上げた。届くことはなかった。愛は枯渇してしまっていると、身をもって知った。ああ、まだ、何も。何も、出来ていない。自分も世界も変わっていない、自分を好きになんてなれていない。だからまだ、死ねない。まだ私は、生きなければいけない。
ただ生き長らえるためだけに、転がる肉に手をつけた。そんな食事を続けていれば、ああも不快に感じた腐敗臭はいつしか私の世界を去り、血の味もまた、消えていた。

霞む視界に、愛を忘れた世界を見た。今日も、飢えに喘いで人が死ぬ。そんな世界から逃れたくて、長い瞬きをした。
愛している。未来のことを、本当の愛に溢れた世界のことを。
あなたの語ったそんな世界に生きられたなら、きっと、自分だって愛せるのだ。愛をくれたあなたのために、今の自分を愛するために、生きたい。

愛は与えた分だけ返ってくる。
それなら、生きていたら、ただ生きて、未来を迎えられたなら。

第十六話: テキスト

「未来の私はこの気持ちを返してくれる、そうですよね、クラン」

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第十六話: 画像

もしそうじゃなかったら。なんて、あまりに救われない。


【ストロ・フォン・ディメリの返報】



____終演____



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灯された電灯が、シアターを照らす。

ずくずくと、心臓が痛む。息が上手く吸えなくて、浅い呼吸を繰り返していれば、目の前がちかちかと点滅した。喉の奥から迫り上がるものを感じ、座っていられそうもなくて、惨めにも体を丸めて、泣いた。瞳に留めていられない涙は次々零れ落ち、水の膜で歪んだ視界では椅子の輪郭すらも捉えられない。これは吐き気に伴う生理的なものだろうか。いや、きっと、自分によって散り散りに引き裂かれたこの心のせいだろう。

自分がこれまでに、何をして生きてきたのか。
身体中に、ヘドロのような黒い淀みがまとわりつく。これはきっと、自分のためと奪ってきた命の重みで、重ねてきた罪なのだろう。自分がいかに汚れた存在なのか、もうわかっているというのに、嫌というほど知らしめられる。
これまで自分は、こんな身体で、こんな手でみんなに触れてきたのか。みんなのことが大好きだから幸せにしたいって、愛を伝えたくて、少しでも愛が伝わればいいと思って、触れてきた。けれど、自分にそんな資格は無かったのだ。全部ぜんぶ、間違っていた。ベタベタと触れて汚してしまった。もう誰にも会いたくない、触れたくない。この手が、この身体が、自分自身の何もかもが、憎くて、嫌いで仕方がない。この船でみんなに与えようとしていた感情だって、こんな自分から生まれる感情が、愛だなんて綺麗なものであるはずがない。

自分を好きになるなんて無理だった。大嫌いだ、こんな自分。

過去は過去だと切り離してしまえればよかった。過去のストロのように、今と未来を切り離していたのと同じように。でも、どうしたってラズはストロの延長線上を生きている。今更、こんな形で、過去と未来が繋がっていることを理解したくなかった。
こうして自分を責めているのはストロで、ストロの自己否定に存在意義を問われ答えられず、息すら出来なくなっているのがラズだ。他でもない自分自身に自分のことを、誰よりも否定される。苦しくて苦しくて、ぼたぼたといつまでだって涙は溢れた。眼球の痛みは、きつく瞼を閉じて誤魔化した。

自分が嫌いだ。与えたかった愛は、きっと稚拙な押しつけだった。仮初に過ぎなかった。
ここにいることを幸せだと、ここを居場所だと感じていたことすら不相応に思われて、もう、消えてしまいたいとさえ思った。

望んだとおりに生き延びた。何があったのかはまだ分からないけれど、生きて、ラズはストロの未来になった。でもラズは、彼に愛を返せそうにない。一度も、愛を教えてくれたクランにさえも、愛を返せなかった。本当の愛を知って愛し方を知って、人に愛を与えられる、返せることなど、今の自分にも未来の自分にも、自分である限りは出来ないのではないだろうか。

そのまま泣いて、泣き続けて、どのくらい経ったのだろう。
少しだけ心は整理された。酷い頭痛に妨げられてまともに物は考えられないけれど、ひとまずはこの場を離れたかった。力の入らない足は自分のものではないかのようだ。それでも無理やり立ち上がり、定まらない足取りで扉へ向かう。
もしも誰かに会ったのならば、できるだけ、いつも通りに。
誰にも知られたくない。こんなもの、自分だって知りたくなかった。
知らないままでよかった。見なければよかった。
せめて、誰かと会うかもしれない、個室までの道中くらいは平静でありたい。そんな思いと裏腹に、涙は未だ溢れてくる。
扉を前に、下手な深呼吸をして目元を乱暴に擦った。一度確かめるように口角を上げて、力なく頬を叩く。ラズはシアターを後にした。 


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第十六話: テキスト
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