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第八話

第八話: ⑧

《____医務室にて》

医務室に限らず、船内の温度は常に適温に保たれている。
暑さ寒さを感じない過ごしやすいこの部屋に、何やら風が吹き抜けたような心地がして鮫はゆっくりとその目を開いた。

あれ程精神を蝕んで身体を支配していた痛みは、まるで元々存在しなかったかのように消え失せている。驚くほどに思考は冴えていて、雪崩込む記憶に、"自分"に、動揺していた事実はどこか他人事のように感じられた。眠りに落ちた際の記憶はない。ただ襲い来る痛みに唸り声を上げていた、そのことしか記憶になかった。気絶でもしたのだろうか。誰の手で介抱されたのかも彼には検討がつかなかった。……迷惑を、かけた。

当時の話。負荷試験を終え、次に目を覚ました時には部屋にいた。眠ったと言えるのか些か疑問だが、何の気兼ねもなく深く眠れたのはそんな時だけだった。最近は……"執六鮫"であった最近は、睡眠に悩まされることも無かったため、当時の睡眠不足はいつ生命が脅かされたものか予測もつかないがための精神的なストレスを原因とした睡眠不足だったのだろう。
今回のような穏やかに目覚めた感覚は、実験途中に意識を手放し、そして部屋で目を覚ましていたあの頃の感覚と似ていた。

彼自身の感覚としては長く眠っていなかったとしても、それを確かめる術は彼にはない。何日経って何時になっているのか。その指標は船には無く、また、いつから映像を見始めたかなんて些細なことは確認していなかった。時刻だけ分かったところで意味はない。世界の流れに置いていかれたような、医務室にはそんな隔絶された空間であるかのような雰囲気がある。みんなは今、何をしているのだろうか。

ありもしない痛みを引きずっているのか、身体は思うように動いてくれない。それでもその身を叱咤して、鮫はゆっくりと上半身を持ち上げた。辺りを見回せば変わりなく静かに佇む医務室の設備が目に入る。ここが、現在身を置いている場が船内であることを思いのほか素直に受け入れられた彼は、最後に隣へ目を向けた。そこには、固く目を閉ざし規則正しい寝息を立てる妹の姿があった。

「………鈴杏。」

噛み締めるようにその名を呟くと、鮫はシワひとつないシーツを強く握り込み眉を寄せた。ぐ、と唇を噛み、その目を細めて妹を見る。

「……生きてて、よかった。」

もう、会えないと。会うことはないのだと、そう思っていた。
だが、現実は違う。妹が生きていた。そして自分も生きている。

「……兄サマは、また会えて嬉しいよ」

覚悟を決めたはずだった。妹を逃がし、自分はあのまま死んでいく覚悟を。もう会えなくても良いのだと、こんなところで顔を合わせることなど無いようにと、次に会うなら天国だろうと。そう思って、送り出した。

…………今思えば、覚悟できた、はずもなかった。
あの場では最善を尽くしたんだと、満足した。それは事実だが、今振り返ればそんなはずはないのだ。満足したはずがない。
妹の無事を確かめたかった。一緒に生きたかった。このまま死んで本望だなんて嘘だ。死んでも死にきれないに決まっている。そもそも死にたくなんかない、どうして自分たちがこんな目に遭わなければならないのか。こんな当然の欲求に蓋をするほど追い詰められ、何にも縋れない日々だった。

「生きててよかった。」

生きて再会出来てよかった。

再度その事実を確認するように零れた声は優しかった。
未だ、妹の目は閉ざされている。開く気配もない。兄の並べ立てる、心からの言葉は妹には届いていなかった。それでいい、それでも生きている。少なくとも非人道的な仕打ちを受けることは無い安全な地で、兄妹ふたり、生きている。

「嘘ついて、ごめん。」

兄の言葉を盲目に信じ最後まで疑うことなく眠りに落ちた妹。その姿を見届けた彼は押し潰されてしまいそうな罪悪感を抱えていた。嘘をついたこと。約束を破ったこと。嫌われても仕方がないのは理解している。だけれど、いい。生きているのならば、あのまま息絶えてしまうことに比べれば何もかもが取るに足らない問題だった。

鮫は妹の穏やかな顔に表情を和らげると、軋む身体を横たわらせる。頭を枕に預け、ぼんやりとここで出会った大切な人達に思いを馳せた。

……悪いことをしたな。

鮫自身は、映像を見たことに大きな後悔はあれど妹の存在を知覚出来たことに喜びも抱いている。それは彼にとって、過去の痛みに勝る喜びだった。……当事者の二人は支えを得たとしても、三人の目にはどう映っただろうか。

上手く思考がまとまらない。
無理矢理引き上げていた瞼が落ちていく感覚に身を任せ、彼は再び眠りについた。



一瞬の後再び目を覚ましたその時、また記憶を失ったのかと錯覚した。
視界の端、僅かに映りこんだ惨状に眠気などどこかへ行ってしまったようだ。疲れが取れたのか軽くなった身体で飛び起き、改めて辺りを見回す。
整然と並べられていた壁沿いの棚は見事なまでにどれもこれも倒され、ガラス張りであった戸の破片やら引き出しやらが白い床に散乱している。中には、机の上に置かれていたであろう資料や筆記用具も破片に紛れて転がっていた。唯一、医務室の番人である彼女がここに置いているという大きなくじらのぬいぐるみだけが行儀よく椅子に座っているが、目の前にはとても普段の医務室とは似ても似つかない乱雑とした景色が広がっていた。
変わり果てた様相の医務室に、鮫は、ちょっと、いやかなり強めに頬を抓った。

____事件が起こったのは、血の繋がった兄妹が薬によって意識を閉ざしてから二度目の夜中が訪れた頃。宙に浮いた画面、そこに無機質に表示された時刻に0が並び揃ったのは、鮫が再び目を覚ます数時間前だった。


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《____医務室にて》

鮫と翠が戻ってきたというその時、ハイルは医務室にはいなかった。
業務時間いっぱい探索をするつもりで船を降り、帰ってきたのは終業時間を少し過ぎた頃だ。雪に覆われたこの地で遭難し自力で帰ってきたというのだから、残業になるとしてもその様子を確認に向かうのは船内の医療担当を自負する彼女にとっては当然であった。

安静に眠れるようにだろうか、医務室の照明は完全に落とされていてハイルは忍び込むようにしてその中に立ち入った。扉の音を、足音を響かせないよう気を配り、迷うことなく備え付けのベッドへ向かう。
仲の悪いはずの二人が並んで静かに眠っている。その様がなんだか新鮮で、また、無事に眠っていることに安堵して、ハイルはその頬を緩めた。
特に息苦しい様子や発熱、発汗などは見られない。よく眠れているのであれば無闇に手を出さず、夜間はこのままそっとしておくのが良いだろう。きっと、明日は船長から彼らの看病を頼まれるのだ。自分の体も休められる時に休めておいた方が賢明だろう。
ハイルはその胸中で結論づけ、物音を立てないよう十分に気をつけながらその場を後にした。


そうして、始業時間。案の定と言ったところか、船長はハイルに声をかけ、看病を任せる旨を伝えた。快く返事をすれば、船長は一度お礼とともに微笑んだ。そして帽子を深く被り直して目を逸らし、再び口を開いた。

「……二人が目覚めれば、きっと、隠しておくことは出来ないだろうから伝えておくね。動揺しないために。……彼らも映像を見た。起きた際の挙動に違和感があっても、二人の関係性がまるで異なったものに見えても、……それが真実だ。」

……頑なに、目を合わせようとはしなかった。
二人とも映像を見たと言った。二人の関係性が変わると言った。
……いや、深入りすべきではないだろう。ここにおける"映像"、それに映し出されるものが踏み込まれたくない領分であることは、この身で痛いほどによく知っている。

「彼らに痛みはもうないだろうから、後は気持ちの問題だ。整理をつけるのは難しいし、……誰かの支えが必要になる。その支えは、彼らの場合、きっとお互いだから。何かおかしくても、自分を傷つけるような真似をしていなければ見守っていてほしい。医務室を去っても構わない。……ハイルも、乗り越えられていないかもしれないし、今この話をするのも心苦しいけれど…………」
「大丈夫だよ、船長さん。……全部話してくれるの、待ってる。」

無意識下で父と重ねていた。一緒に暮らしていた頃の……優しかった、記憶の中の父を、恐らく同年代であろう船長に重ねていた。それは記憶が無かったが故の逃避で、甘えだったのだろう。
今ならばはっきりと言い切れる。船長は父ではないし、家族ではない。
断っておくが、ハイルは船長や船員に対して情がないかと問われればすぐに否定出来る。情はある。いつからかも分からないが、共に過ごしてきたのだ。記憶を取り戻した今でもその情は消えてなどいなかった。……ただ、みな他人だった。その事実は彼女に重くのしかかり、時々、ひどく寂しくさせる。
現在の彼女に残る情は無償の愛のような、家族に向けるようなものではない。友達に向ける信頼、友情、打算と、それに少しの憐憫。家族ではない、それだけで抱く情の質は大きく異なっていた。
今まで通りに話しながら楽しく過ごせているとしても、常に頭のどこかが冷え切っている。ふとした瞬間、自分は一人なのだと、心が死んでいくような感覚に襲われる。そんな時、いつも頭に過ぎるのは船で出会った彼の言葉だった。

「君が独りで泣いてると思うと、……俺は、悲しいっすね。」

一人ではないのだと教えてくれた彼の言葉が、どれほど支えになっているのか、きっと彼は知らないのだ。彼の、シンシアのおかげで、ハイルの心はその形を保っていた。

深呼吸を繰り返し、よく考えた。そうしてようやく結論を得た。
かつて、他者に貼られたレッテルに縛られ、誰かが下した評価に縛られ、話す機会すら与えられずに真綿で首を絞めるようにじわりじわりと殺された。
……アハルディア47で、一度でもそんなことが起きただろうか。ここには、自分を、前提も評価も偏見も何も無いまっさらなハイル自身を受け入れてくれる人がいる。
船長の、船員の、本当の姿は知らない。けれど自分は、"船長"や"船員"のことを知っている。船員もまた、画面の奥の匿名の誰かよりも、"ハイル"のことを知っている。

学校で出来る友達だって、みんな初めはただの他人だ。情のやり取りを経て、信頼を積み上げて、他人から友達という立場へ変わる。
家族はいない。自分の家族は両親だけで、ここにいるのも元の世界にいるのも全員が他人だ。ハイルの世界には、もはや他人しかいなかった。
どこにいたって周りは他人だらけであるのに、船員の皆が見知らぬ他人だからって、それの何が問題か。それでも信頼を積み上げて、家族以外の、何か、大切な何かになることはできるんだ。
逃げてはならない。逃げて、逃げて、逃げ続けて得られるものは何も無い。受け入れよう。歩み寄ろう。

だから彼女は、船長が自ら話してくれるその時をただじっと待つことにした。船長その人と、向き合おうと思った。
だから彼女は、ずっと目を逸らしてきた問題と向き合うことにした。ようやく得た結論を引っさげ、次に探索に出られるときに、エマを誘うことを決意した。自ら壊したその絆を繋ぐため、親友を再び親友と呼ぶために。

待つ、と、穏やかな笑みを携えてそう告げた。驚いたのか、顔を上げた船長とようやく目が合う。一瞬だけ交わった彼の目には迷いが読んで取れた。

「……ごめん。ありがとう。」

唇を少し噛み、しかし少しだけ肩の荷が降りたのか、船長は穏やかな声色で一言謝罪を零す。続けたお礼は、追及しない彼女の姿勢へのものだろう。船長とて、誤魔化し続けるのも黙り込み半ば無視をする形になるのも本意ではないのだ。ハイルにそれを防ごうという意図が無かったとしても、彼女の姿勢は船長にとっては紛れもなく救いで一時の休息だった。

それじゃあ、よろしくね。
ぱっと表情を明るく変え、朝礼後のようにその言葉を告げた船長の背を見送る。さ、仕事だ。いつも通り、医務室へ向けて一歩踏み出した。





最近使われることが増えた包帯や消毒液を補充したり、戸棚の薬品をチェックし備品を管理したり、細々とした仕事をこなしていれば知らぬ間に終業時間を迎えていた。何事も無かったことに一息つき、傍らにいるぬいぐるみを何度か撫でた。体調不良や怪我など無い方が良い。備品は減らない方が良い。
二人は昨日、自分が戻るまでの間に船へ戻ってきて、そして映像を見た、らしい。昨夜確認した時にはゆっくりと眠っていた鮫や翠には、業務中異常も大きな変化も見られなかった。と、なれば既に20時間程度眠っている。起きるのも時間の問題だろう。誰もいないのは危険だ、幸いハイルは夜中に医務室に常駐することには慣れていた。

____そして、二度目の0時頃。

まったく起きる様子のない二人に油断していたのかぬいぐるみを手に船を漕いでいたハイルは、扉の開く音に慌てて姿勢を正した。病人以外がいる医務室の照明は夜間にしては明るい。朝が近ければシンシアが訪ねてくることもあるが、こんな時間に誰かが訪ねてくることは稀で少し身構えて入口を見た。
……そこに立つ、見慣れた姿に肩の力を抜いた。彼は残業だなんだと、遅くまで起きていることが多いらしい。睡眠は重要なのだから、まともに寝てほしいものだ。

入口には、メルトダウンが立っていた。

第八話: テキスト

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《____2F廊下にて》

いつからか、夜時間に船を見て回るのが仕事になっていた。異空間にいない今もその仕事は変わりなく、シンシアは暗い照明の中を退屈そうに歩いていた。異常がないに越したことはないが、……そもそも異常があったことも多くないが、何も無いのもつまらないなんて考えるのは罰当たりだろうか。

続く階段が2階に差し掛かった頃、薄暗いはずの廊下に光が射していることに気がついた。扉が開け放たれているのであろう、どこかから四角く光が射している。

……話し声が聞こえる。

「なあちょっとでいいんだよ、ちょ〜っとだけくれればさあ。」
「な、え……何、なんで……?メルト……?」
「そうそう、メルトメルト!知ってるだろ?俺眠れなくてさ〜、薬欲しいんだよ。なあなあなあ、可哀想だと思わない?俺とハイルの仲じゃん!ほら、くれよ。」
「……ッ……?」
「……黙りかよ。いーよ勝手に探すから」

異様な会話、聞いたことの無い会話だった。
一瞬訪れた静寂はすぐにその身を潜め、ガラスが割れる音が耳を刺した。

聴覚に訴えるその異常に、シンシアは目を見開きほんの一瞬立ち止まったが、構わず光の元へ向かうことにした。光を、音を辿った先、扉が開かれている医務室に駆けた勢いのまま飛び込む。

息を呑んだ。

戸棚を開いては収穫が無ければ舌打ちとともにそれを乱暴に倒し、引き出しを漁っては中身を床に放る、メルトダウンの姿。目当ての何かのほかに興味は無いらしい。明らかに様子がおかしいメルトダウンに、事情説明を求めるように机の傍にへたり込んでいるハイルを見やったが彼女にも何が何だか分からないようだ。入口を気にする余裕もないらしいハイルは顔を白くして視線を泳がせるばかりだった。
ただならぬ空気に包まれる医務室は、普段の整然とした雰囲気から大きく外れ、動揺が渦巻いている。
……戸棚の辺りにメルトダウン、医務室の中心、机の傍にはハイルが座り込んでいる。メルトダウンが破壊している戸棚と反対方向に備え付けられたベッドには、かなり無茶をしたという鮫と翠が眠っている。
これだけ距離があれば、他の三人に危害が及ぶことは無いだろう。
シンシアは瞬時に室内の状況を把握すると、意図の読めない破壊行動を繰り返すメルトダウンと距離を詰めその腕を強く掴んだ。
ピタリと動きを止めたメルトダウンはそこでようやくシンシアが訪れたことに気がついたらしい。ふっと、シンシアの方へ顔を向けた。

「……お、シンシア。お勤めご苦労様!」
「っ、……何、してるんすか。」
「捜し物だよ。」
「こんなこと、する必要あります?」
「ハイルくん、聞いても無視するから仕方ないよなあ〜。あ!代わりに王子様が聞けば教えてくれるかも!?」

けらけらと、楽しげに話すメルトダウンに強烈な違和感を覚える。
信じられない目の前の光景に酷く眉を顰め、何も言えずにいると、突然メルトダウンから表情が抜け落ちた。じとりと品定めするような目でシンシアを見る。
そして、口の端を引き上げて嘲るように告げた。

「お前、あいつのこと好きなんだっけ。16歳と、20歳?……いやあ、はは、とんだロリコンだな。」

何を、言っているんだ、こいつは。
頭に血が上る感覚。このままでは三人に危害を加えかねないという意図もあったが、その反応は殆ど彼の放った言葉に対する怒り故だった。
反射的に飛び出した、固く握られた拳は見事にメルトダウンの頬を貫いた。予想外だったのか、少しも反応出来なかった彼は受けた衝撃のままに机に衝突する。机上に積まれた物が勢いよく床に散乱した。
しん、と医務室が静まり返る。‪当たりどころがよかったのか悪かったのか、どうやらメルトダウンはそのまま意識を失ったらしい。

第八話: テキスト

息を切らし、シンシアは鈍く痛む拳をじっと見つめた。急速に頭が冷えていく。

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第八話: 画像

​いくら混乱していたとしても、強行的すぎる手段をとってしまった。力による沈静化は最終手段であるはずなのに……いや、何をしでかすか分からなかったのだから、早々に気絶させてかえって良かったかもしれない。
それでも、自身の行動が余りにも唐突で理性に欠けていた。そのことを自覚し唇を噛む。このまま放っておく訳にもいかない。怯えさせてしまったであろう少女へ目を向ければ、目を見開いて唖然としていた。恐怖の色はなく、ただ驚いている、そんな表情。

「……すみません、驚かせて。」
「いや、…大丈夫………今の、ってさ。」
「多分、同じこと考えてます。早々に落としちゃったんで確証は持てないっすけど……おそらく。」

目を伏せ、苦々しげに、呟いた。
あまりに様子がおかしかった。きっと彼はメルトダウンではない"誰か"で、シンシア達は既に船員が"そう"なる可能性を知っていた。……メルトダウンは、映像を見て記憶を取り戻したのだろう。

「…………このふたりだけじゃなかったんだ。」

呆然と零されたハイルの呟きに、シンシアの眉が僅かに動くが言及することは無かった。その一言で彼も何かを察していた。

はっとしたように立ち上がり、破片を片付けようとするハイルに、素手では危険だからやめておいた方が良いと声をかけた。片付けは業務が始まってからでもできる。それに道具を用いた方がよっぽど効率が良い。力仕事になるだろうから、始業を迎えたら自分がやる、と、そう告げた。

ひとまず今は、目を瞑り静かに眠る彼の処遇を決めなければならない。二人は少し話すと、一度、船長の個室へ相談を兼ねて報告に向かうことにした。 時刻は深夜。既に就寝しているかもしれないが致し方ない。シンシアは起こさないように注意しながら彼を背負い、二人は船長の個室へ向かった。


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《____船長の個室前にて》

誰もが寝静まった深夜であるのに、その扉は数回のノックで開かれた。まだ起きていたらしい船長は、シンシアに背負われたメルトダウンを見て不思議そうに目を見開く。さすがにこれだけで察することは厳しいようで、船長はシンシアに事の次第を尋ねた。

「…メルト?どうしてシンシアが彼を背負って……」
「……医務室で暴れてたんすよ。殴っちゃったのは申し訳ないですけど、一旦寝てもらいました。……何するかわかんなかったんで。」

極めて冷静に、簡潔に述べる。
その事実に船長は眉を寄せ、何か考えるように、確かめるように繰り返した。

「暴れてた、って?」
「……うん、薬がどうとか言って。……棚とかも全部倒されてて、医務室は今酷いことになってる。」
「朝になったら俺が誰か誘って片付けておくんで、……船長は、……何か心当たり、あるんすよね?」
「…………そうか、ありがとう」

シンシアの言葉に一拍遅れて船長が答える。返答が答えになっていなくても、その神妙な面持ちから答えを読み取ることは容易だった。
間違いなく、船長は事情を知っている。しかし彼はメルトダウンが映像を見たであろうことに驚いていたため、シンシアがハイルの過去を見た時のように共に見た訳では無い。つまり、映像を介さずとも船長はメルトダウンの過去を把握している。……船長のことを信じたくても、シンシアにはもう彼のことを手放しに信用することは出来なかった。

「船長さん、それと……少なくとも明日くらいは、一日中ついてあげてほしいの。様子おかしかったし……放っておくと、その捜し物のために誰かを傷つけるかもしれない。きっと、メルトもそれは望んでない、だろうから。……何も知らない私には、本音なんて分からないけど。」

メルトダウンは今気を失っているが、だからといって医務室に寝かせておくわけにはいかない。先程のようなことがあれば問題だ。シンシアはそう考えたが、ハイルはメルトダウンの心情も慮り、端的に言えば誰かを見張りにつけることに賛成した。ほかに誰が彼の映像を見たのか二人には検討もつかなかったため、それなりに力のある成人男性であり、かつ確実に事情を把握している船長にひとまず彼を任せることにしようと、個室までの道中で決めたのだ。

「ああ、分かった。そうするよ。」

本人もそのつもりだったのだろう、船長は快く了承した。その返答に従うように、船長の個室に彼を寝かせる。……眠っているだけならばメルトダウンにしか見えない彼は、一体誰だったのだろうか。
船長は静かに彼を見下ろしたのち、改めてシンシアとハイルへ目を向ける。労いの言葉をかけ、ゆっくり休んでくれと笑顔で告げた。

船長の個室を後にする。少し気にかかったから、訊いた。
「……ハルちゃん、船長に言ってた……アシタとかってどういう意味っすか?」

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《____リビングにて》

珍しい組み合わせだと、自分でもそう思った。
鮫と翠が行方不明になり無事に帰ってきた。エマの預かり知らぬところで事件は起き、そして解決したらしい。まだ目は覚めていないようで、朝礼後船長がハイルに声をかけていたからきっといつものようにあの子が看病するのだろう。
早くに探索を終え、これからどうしようかと階段を下っていたときに不意に後ろから声をかけられ、そうして今二人でリビングにいる。
エマの目の前でペスタは楽しげにかつての探索での出来事を話していた。

「それでですね〜……エマさん?聞いてますー?」
「うん。……えっと、おっきい雪だるまが、なんか、……走った?」
「え!?全然違いますよ!??走ったのは僕ですし〜おっきい雪だるまには見えなかったと思うんです……いやでも確かに白かったし遠くから見ればその可能性も……?」

ペスタは、防寒目的で白いシーツを被っていた自らの姿が相手にとっておっきい雪だるまに見えた可能性についてなにやら考えていた。
ペスタは、小難しいことを考えるのが苦手である。可能性について……などと格好つけてみてもほんの少し経てば思考が絡まってしまったらしい。まあいいや、と悩ましい表情をあっけらかんとしたものに変えた。
賑やかなペスタだ、話題は尽きない。終始エマは聞き役だったが、身振り手振りに表情と声色を加え話すペスタの話を聞いているだけでも十分に楽しかった。
ふと、エマが何かに気がついたように口を開く。

「ペスタさん」
「なんです?って、なんでそんな他人行儀な呼び方なんです?僕ペス姉ちゃんですよ〜??」
「……気にしないで」
「えぇえ……気分ですか?まあそんな時もありますよね!ちょっと寂しくてぴえんですが……」

ただの好奇心だ。前と少しも変わらない彼女に、訊いてみたくなった。

「ペスタさんは、怖くない?」
「??何がですかー?」
「……記憶、自分も……とか、船長さんのこと、とか。」

エマは、船長を怖いとは思わない。勿論聞きたいことは沢山あるが、"絵真"と同様船長にも事情があるのだろうと、そう思っている。理由があって隠さざるを得ないとか、きっと悪意ですべてを隠している訳ではないのだと。エマは船長を信じていたい。あの狭い家よりもよっぽど優しいこの世界を信じていたい。
自分が家族の一員だとは烏滸がましくてまだ主張出来そうにもないが、自分のことを棚に上げればエマはこの船が好きだった。

ペスタも映像を見た、それをエマは知っている。
映像を見たならば少しは不安を抱いたり不信感を抱いたりしそうなものだが、ペスタには不安の一欠片すら見られなかった。明るい振る舞いは無理をしているようには思えない。ペスタは、どう捉えたのだろう。
エマの問いに、ペスタは呆気に取られたような顔をして数回瞬きしたのち、考えるように視線を下に向けた。ぱっと顔を上げ、答える。

「……よく分かんないです!今楽しいから、昔がどうとか……ううん、そうですね、その時が来ないと分かんないですね!!船長……たぶん、なにか大事なこと隠してるんだろうな〜、とは思うんですけど……」

第八話: テキスト

「船長は船長ですし。変わりません、信じます!」

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第八話: 画像

眩しいほどの笑顔で、サッパリと言ってのける。

「なんだか最近、船の空気がどんよりしてて良くないですね〜!僕はみんな明るく楽しく生きてほしいですよ」

自分の意見を確かめるように頷きながら、 晴れ晴れとした表情を見せた。楽観的で刹那的。危機感が無いと捉えられることも少なくないが、それでも相手まで元気にさせるような、そんな力がペスタにはあった。

エマは、ペスタの返答に僅かに目を見開いて静止した。視界が大きく開けたようだ。どこまでも前向きに、自由に物事を捉える考え方はエマには無いもので、彼女は素直に感心した。尊敬した。こうして生きられたらきっと楽しいのだろうと、羨んだ。

「……すごいなあ」
「えへへーペスタお姉様って呼んでいいですよ!」
「それはちょっと……」
「ガーン!バッサリ切られてショックです……」

泣き真似をするペスタを見て、エマはつられるように少しだけ笑った。


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《____迷路にて》

迷路の奥、誰も足を踏み入れていない場で見つけた割れたディスク。
拾い上げて何の気なしに親友を振り返れば、彼には心当たりがあったようでひどく顔を歪めていた。これが彼の悩みの根源なのだと気がついて、自分も当事者になったことを理解した。だから、少し問い詰めた。

観念したルークが船に戻る道中ぽつぽつと話してくれた内容はあまりに信じ難く、ヘデラには不可解に思われた。実際に見た者にしかその感覚は分からないのだと語るルークは、ずっと抱え込んできたらしい悩みを吐露したことで少しは気が楽になったようだった。
見るべきか、見ないべきか。
自分の知らない自分がいること、それに伴い今の自分が偽物であるかのような不安に囚われること。しかし、ルークの知る限り、自身の映像を見た者は例外なく全員苦しんでいたこと。
また、映像の中身は再生せずして予測することは出来ないらしい。
もしもヘデラの映像であると知ったら自分は見るのをどうにかして止めようとするだろうが、もしも自分のものだと知ったら、知らない自分がいることへの恐ろしさからきっと見てしまうだろう、とルークは言った。
ルークが俯き、遠慮がちに零す本音は、到底ひとりで抱えるべきものでは無かった。ずっと悩み苦しんでいたものをもっと早く分けてほしかった気持ちもあるが、今のヘデラの胸中はルークの本音を知ることが出来た安堵の方が勝っている。話してくれてありがとう、そう言ってルークを見ればぶっきらぼうな返事が返ってきた。いつも通りのやり取りだ。

事情を把握したヘデラに、ルークが問いかける。

「ヘデラは、どう思う?これ。」
「……誰のかは分からないんだから、廃棄するのは不味いよね」

いくら酷い記憶でも、その人の一部だ。
部外者にそれをどうこうする権利はない。

「僕も……そう思う。でもこれ、既に壊されてるよね」
「誰かがやったのかな」
「と、思うけど。それにしては破片も足跡も無かったのはおかしいし、……」
「うーん……」

話し合いは平行線。何かを推測するにも、あまりにも材料が少なすぎて想像の域を出なかった。手元のディスクを眺め、ヘデラが呟く。

「再生出来るのかなあ」
「……見るつもり?」
「……もし見なかったとして、ルークはどうするつもりなの?ディスク、って言えばいいのかな。中身を知らないまま持ち続けて、みんなに隠すこと、できる?」
「……」
「ルークが考えてるみたいに……自分の記憶だとしたら取り戻したいって、そう思ってる船員もいるかもしれない。なら、存在を知ったまま隠すことが必ずしも良いことだとは言いきれないんじゃないかな……」

ルーク自身が考えていたことを、他の船員も考えているかもしれない。シアターの件でシャルルや船長が口にした"知る権利"、ディスクの秘匿はそれに当たるというのも頷ける。理論としては、頷ける。
体験していないが故の、感情的にならないがための、論理的な思考。ルーク一人では辿りつかなかったであろうその視点と決断だった。ひとりでぐるぐる、同じ思考を辿り続けるよりも、ずっといい。
説明を受けた様々な要素を加味して、何かを考えていたらしいヘデラが、ルークに向き直る。そして自身の打ち出した結論を告げた。

「再生出来るかどうか、それと、中身が誰の記憶なのか。……僕は確認した方が良いと思う。」

ヘデラの真っ直ぐな声にルークが答えた。

「……僕もそう思ってたとこ。」


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《____シアターにて》

ヘデラがシアター内部を訪れたのはこれで二度目だった。
何度かローレと侵入を試みたが尽く失敗に終わったことはよく覚えている。今やこんなにもあっさりと侵入することができるのかと、少し拍子抜けした。
確認すると決めて、尚表情の固いルークはおそらく緊張しているのだろう。ルークにとってシアター内部に真新しさは特に無く、もはや見慣れた設備だった。彼は、しばらく足を踏み入れていなかったヘデラとは対照的に、20数時間ほど前にもここを訪れている。

映像を再生させるため、ヘデラは壁際に並ぶ再生機器の数々を見た。……見慣れないUSBメモリが刺さったままになっている。誰かの忘れ物だろうか。ヘデラは首を傾げてそれを抜き、分かりやすいように再生機器のすぐ手前に置いた。
割れたディスクを読み取ることが出来そうな機器を見つけ、セットする。準備は出来た、後は再生するだけだ。

「ルーク」
「……?どうしたの、ヘデラ」
「割れてるの入れちゃったし、再生機器の方がダメになるかもね」
「その心配してるの?……再生出来なきゃそれでいいし、壊れてもどうとでもなるでしょ。大丈夫だよこんな沢山あるし。」

「ふふ、そうだね。……僕ちょっと、怖いかも。」
「珍しいね、弱音。……大丈夫とは言えないけど、たぶん、何も知らないよりマシだ。」

その言葉を境に、二人は口を閉じた。
____再生。


第八話: テキスト

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____開演____


【××の暗愚】


自我を持て。自分の選択に責任を負え。
いずれトップに立つことを自覚し、
自分の為に他人の命を消費しなければならない。
時に、冷徹に手を下さねばならない。
時に、寛容に目を瞑らねばならない。
それがお前が身につけなければならない処世術だ。

身の振り方には細心の注意を払うこと。
不敬は罪で、裏切りは死を意味している。
その血に誓った忠誠は生涯守りきらねばならない。
下された命令は確実に遂行しろ。
繰り返すが、裏切りは死だ。


血統が物を言う縦社会に生まれた。さんざっぱら言い含められたそれらは深く身体に刻み込まれていて、また、文字通り刻み込まれた傷跡も今もこの指に残っている。ファミリーに加入する際、一生消えることの無い傷を刻むことでファミリーに生涯を捧げることを誓う儀式。血の繋がりが無くともその傷を有していればファミリー、家族なのだ。
トップの一人息子として生まれた僕は、この世界の実力主義を唯一無視出来る本物の血縁を持っていた。僕の所属するここは、トップだけは世襲制だった。

第八話: テキスト

僕は所謂、裏社会の人間だ。

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第八話: 画像


強固な絆で結ばれた大家族は居心地がいい。やるべきことをきちんとこなせば、評価は自ずとついてきた。幸い僕にはその能力があった。父の威厳という色眼鏡を通さず家族に認められることはまっさらな僕にとっては純粋に嬉しくて、そして嬉しいから笑ってた。へらへらにこにこ、楽しく暮らしていた。それが、一部の奴らには気に触ったらしい。

「いずれトップに立つ者であると自覚しろ、【ノア】。お前は、俺たちは、敬われなければならない。畏れられなければならない。……世襲が相応しくないと考える連中には、その気の抜けた笑顔が器に足らないように見えることもあるんだ。」

父の教えは絶対だ。
笑顔を見せるなと、言った。従わねばならない。反対派閥を黙らせるには僕が隙を見せなければいいだけだ。父の言う通り、簡単な話だった。
一時は一大勢力であったその派閥も、次第にその勢力を衰えさせた。実力も兼ね備えた一流の血統に文句をつけられるはずもない。
いつしか、僕から笑顔は消えていた。一瞬の判断が命取りになる場に生きているのだから感情は無駄だ。合理的。父は正しかった。


父の指示は絶対だ。
幾人となく、仕事の失敗や裏切りで殺されていた。裏切りは死と、言葉だけでなく実際に目の当たりにして知ったのだ。逆らってはならない。従わねばならない。
そうして、課された仕事はなんだってこなしてきた。けれども親子の情か、父は頑なに僕自身が手を汚すような仕事はさせなかった。それが僕には、どうにも子供扱いをされているように思われて仕方がなかった。
家族に認められたところでもう嬉しくはないし、そうした評価は今の僕にとっては当然あるべきものだ。他でもない父に、ボスに認められたい。そんな胸の内から湧いて出る欲を口に出すことはなかったが、思いが通じたのか、17歳になったある日、ついに父からある物を手渡された。

「これは信頼の証だ。応えてくれるな?」

手渡された本物の銃は、ずしりと重かった。


出来る、大丈夫だ。裏で手を引いて……間接的にだが、既に似たようなことを何度も成功させている。今更ひとりふたりの死体を積み重ねたところで、背負う罪の重さに変わりはない。できる。今までよりも簡単だろ、少し人差し指を動かせば標的の頭は吹っ飛ぶんだ。
できる。
できる、できる。

父の言葉は絶対だ。
従わねばならない。応えねばならない。
やらなければならない。
できるできないの問題ではない、やる以外の選択肢はない。
やらねばならない。従わねばならない。
やるしかない。


第八話: テキスト


頭を埋め尽くす刻み込まれた強迫観念に、家族の証が痛むような気がした。

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第八話: 画像

直接手を下すのと、間接的に糸を引くのとでは訳が違う。
何がそこまで違うのか、詳しい説明なんて出来ないが、とにかく僕には出来なかった。吹き出る汗に、揺れる視界に、自分がひどく動揺しているのだと悟ってしまった。
残るのは結果で、実力は結果から推察される。この世界では、実力はすなわち信頼だ。僕は仕事を失敗した。積み上げてきた信頼はいとも容易く崩れ去ってしまうのだろう。

些細なミスが生命の危機に直結する僕らにとって、ターゲットを無傷で帰すことなどあってはならない。巡り巡って首を掻っ切るのは、自らの失敗だ。
父の教えは絶対で、だからこの理論は正しい。
父の指示は絶対で、失敗した僕は処分されるかもしれない。
父の言葉は絶対で、信頼に応えられなかったのは罪だ。

父は絶対だ。
僕は、殺されてしまう。

そう自覚した途端、血の気が引いた。父の残虐で冷徹な一面が脳裏に浮かぶ。怖い。無理矢理唾を飲み込んだのに口は依然渇いていて、上手く目の焦点も合わなかった。
裏切りは死だ。失敗しても、きっとその先は同じ。……死にたくない、死にたくない!
そうして僕は、家族を捨てた。

……父の事実は知らない。もしかしたら逃げ出さなくても殺されなかったかもしれない。ただ、銃を渡した父の目は、ただの駒を見ているかのようで、そこに家族を想う慈愛の色はほんの少しも混ざっていなかった。


無我夢中に駆けたところで、行く先なんて僕にはない。
表立った場所には居られない、僕の当面の住処は下水道だった。一時しのぎに他ならないただの悪あがきだ。
死への恐怖に支配され逃げ延びた僕は、紛れもない裏切り者になっていた。家族と会えど、きっと銃口を向けられる。そして、自意識だけが肥大したハリボテだった僕とは違って、彼らは迷いなく引き金を引くことが出来るのだろう。右の薬指に刻まれた家族の証は今や呪いだった。

風の噂で、僕のような裏社会に生きる子供を保護するためのプログラムがあると耳にした。けれど、決断出来ない。信じていいのか分からない。都合のいい話には裏があると、散々この目で見てきたのだ。見知らぬ大人を信用するほど愚かではない。
年若くして嫌という程目の当たりにした人間の本性が、選択の邪魔をする。きっとなにか企んでいるに違いない、嘘を並べ立てているに違いない。そんな風にしか考えられなくなって、いつしか誰のことも信じられなくなった。

自我を持て。自分の選択に責任を負え。
父に従うばかりで、僕は世間を知らない。
何をすればいいのか、何なら出来るのかなんて、少しも分からなかった。

自分の中で、絶対と定めたその指標を奪われ、途方に暮れる。
それが、何よりも明確に僕がただの操り人形であったことを表していた。

自我はない。
僕は自分では何かを決めることも責任を負うことも出来なかった。
ボスの座を継ぐなんて、あまりにも荷が重い。
冷徹にはなり切れないし、卑怯な手しか使えなかった。
絶対を裏切り、忠誠を捨てた。仕事に失敗した。裏切った。

自己満足に組織を抜けて逃げた先、当時はがむしゃらだったが、僅かに希望も抱いていた。自分で自分の将来を切り開けると、そう思っていた。本当に、現実を見れていなくて阿呆らしい。

こんな自分が嫌になる。
何もかもを他人に委ねた人生。
駒としては優秀でも、人として生きてはいなかった。
きっと、その悔いを問われたとて、僕は答えられないであろう。


第八話: テキスト

あまりにも惨めで滑稽なその事実に、久方ぶりに口角が上がった。

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第八話: 画像

【ノア・キールの暗愚】


____終演____


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……映像は、問題なく再生された。
ヘデラは、これがルークの言う船員の過去なのだろうと映像が始まった直後に悟った。すぐ隣に座る彼が映し出された映像は、彼が"ルーク"ではないことを、その現実を突きつける。……何も、言えなかった。
背筋に伝う嫌な汗と、体の芯から冷えているような感覚に襲われる。映像の、記憶の持ち主の様子を確認しようと動かない体を無理やりに動かした。錆びた玩具のように、滑りの悪い関節が音を立てているようだった。

ルーク____ノア・キールは、両耳を塞いで何かから逃れるようにその身を縮めている。怯えきって震える様は、へデラの知るルークからはかけ離れていて、映像の中、死にたくないと顔を歪めた彼そのものだった。
 
言われたことを完璧にこなす。それがノア・キールの処世術であり、彼はその他に生きる術を知らなかった。今、彼の体を支配しているのは途方もない恐怖と嫌悪。絶対であった父を裏切ったところで、空っぽの人間はその末に何も得られなかった。彼の中で父という存在が占める割合はあまりに大きく、記憶を取り戻した今「従わなければならない」という強迫観念もまた彼に戻っていた。同時に、既にその拠り所がここにはおらず身動きが取れない自分への嫌悪感に満たされている。
家族を捨てれば、自分だけで自由に生きていけると思っていた。……そんなものは、甚だしいまでの勘違いだった。記憶が無いときの、  船での生活だってそうだった。自分一人では何をしようともしていなかった。無力、無力、無力。役立たずの、クズ。
……父の期待に応えられなかった。それは、彼の世界から否定されたにも等しい。自分に価値が見いだせなくなって、過剰なまでに自分を追い詰め、生を諦めようとしたノア・キールがそこにいた。

息を切らして俯いていた彼が震えを抑え込むようにして、顔を上げる。ヘデラもまた、顔を青くさせてルークを見ていた。二人の目が合う。
自分の手は汚さなかった。けれどそれ以外のことを何だってやっていた。ヘデラは、それを知っている。言葉に詰まり、喉を空気が通り抜けた。親友、と言ってくれた彼の視線に責められているような気がして、後ろめたさから目を逸らす。ヘデラが何を思ったのか、ルークには分からなかったがもう彼を振り返ることは出来なかった。

今は、一人になりたい。

ふらつきながら立ち上がり、ヘデラから逃げるようにしてシアターを去った。

ヘデラは衝撃に揺れる視界にこめかみを押さえ、冷静でない頭で考えた。結果、見知らぬ存在が映し出された映像をどこか他人事であるかのように捉え、……言葉にはしなかったが、心のどこかで彼を否定した。
……あれは、ルークじゃない。自分の親友は、他人を傷つけることなんて、罪を犯すことなんて、しないはずだ。あれはルークじゃない。

背後で閉まる扉の音は、きっと彼には届かなかった。


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第八話: テキスト
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