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​​第十七話

第十七話: ⑨

並行世界に干渉することは禁忌とされている。では、それを定めているのは誰か。異空間にたったひとつ航行し、独立して役目を果たす観測船に規律を設けているのは何か。
観測船アハルディア47は、並行世界の秩序維持を担う機関、そのひとつである。つまり、並行世界の秩序維持を担う機関は他にもある。管轄する、何かがある。

____KANSASとは、並行世界の秩序を維持する機関であり、唯一他の並行世界の存在を認知している、ひとつの並行世界である。


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《____管制室にて》

つい昨日までと比べ、どこかぎこちない船員が二人。
口数少なに、隠れるように影に立つ彼らは、気にしていなければ違和感を感じる程度だったが、アインスはその異変が恐らくディスクによるものだと気がついていた。彼は、既に彼らの抱えるものと似ているようで全く異なった、入り交じる複雑な感情を経験している。

船という環境に身を置いて、それでも未だ、自分が引き起こした家族の不幸を消化することは叶いそうにない。現に、船員が亡くした兄に重なってしまって、上手く話せないことがある。未練が、家族という存在への執着が見せる幻覚だ。それでも、そんな幻覚に呑まれることなく自分でいられるのは、鮫のおかげで確かな自己知覚ができたためだ。
アインスは透明でないと、自分は自分のままでいいのだと、アインスがディスクを見た直後に顔を合わせた鮫は言った。他人に助けを求めたことで、アインスは透けた自分の身体が実体を持っているのだと、ここにちゃんといるのだと、自覚できた。それは確かな柱となって、今にも崩れ落ちて消えてしまいそうな精神を形作ってくれている。
全部を伝えなくてもいい、一人で抱え込んでしまわないことがきっと乗り越えるきっかけになる。幸い、船には信頼して生活を共に送った船員という、家族のような存在がいるのだ。二人が……取り繕おうとしているトロイやラズが、どうにか誰かを頼ることができたなら、と願わずにはいられなかった。

こんなにも頼りない不安定な自分では、却って二人を追い詰めてしまうかもしれないから。行動を起こすには、支えるには、どこまでも力不足だから。願うことしかできない自分が情けなくて、動きそうにないこの足に視線を落とし、アインスは密かに眉を寄せた。

『アインス!暗い顔して、どうかしたか?』
「よかったら、一緒に行きませんか?探索」

顔を上げると、穏やかな笑みを携えたペスジアがいた。朝礼が終わったというのに動こうとしないアインスを心配し、声をかけたのだろう。

第十七話: テキスト

「アインス、ペスジア。僕も一緒にいいかな?」

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第十七話: 画像

次いで、エスペランサも歩み寄る。彼のそれも、アインスを案じての行動だった。……二人のように気負うことなく他人のためと心を砕けたならば、自分もそうなれたなら、大切な誰かの支えにならんと足は動いただろうか。
もちろんと快諾して、気にかけてくれたことに対し、小さな声でお礼を言った。聞こえていないような振る舞いだが、きっと声は届いたのだろう。心優しい兄と姉の背を追うように、アインスは欠片へと踏み出した。


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《____Bにて》

ペスジア、アインス、エスペランサの三人は、三人ともに未だ向かったことが無いというBを探索の目的地として選択した。ざわざわと揺れる木々に囲まれ、船から道なりに歩いていけば、マップの通り分かれ道が現れる。右折し、Bに向かった。

第十七話: テキスト

Bへと通ずる弧を描く道、その周囲はこれまでとはかなり様子が違っている。道を囲み、三人を見下ろすは木々ではなく、三階建てほどの高さの建物だった。

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第十七話: 画像

色の淡い石やレンガで建てられた建物は見栄えがよく、世界の崩壊以前、かつての活気ある街の様子が目に浮かぶ。

「建物、やっぱり入れないんですね」
「どれも難しそうだね。ほら、これもハリボテみたい」

すべての建物の一階には扉があり、エスペランサがそれに手をかけてみせるも、どうにも開く気配はない。異質な建物は見当たらないから、きっと、どれも同じなのだろう。アインスは精一杯に背を高くして、二階、三階の窓を覗いている。

「窓の奥、花とか、ティーカップとかあるけど……うん、ただの飾りかな。もしかしたら、貼り付けてあるだけ……とかかも」

二階、三階にある小さな窓の奥には花の咲いた植木鉢、湯気の立つティーカップなど、様々な物が覗いている。無数にある窓から覗く物品は一つとして同じものはなく、それぞれに個性があるようだ。アインスに並び立ちペスジアも目を細めたが、眼鏡をかけた彼女にはよく見えなかったらしく、項垂れたエンペラーにはどこか悲壮感が漂っていた。
アインスの見つけたそれらも、扉同様ただのハリボテで平面なのかもしれないが、建物に踏み入る扉がない以上、三人にはその実を確かめる術はない。

「へえ、これ、ちょっと見た目違うんだね。何か理由あるのかな……」

また、つくりそのものは同じであるものの、Bに向かって右側であるA-1のそれらよりも反対側のA-3の建物の方が劣化が進んでいるらしく、少々、外壁の色や形に変化が見られた。エスペランサが触れるA-3の建物は、古び、寂れ、貧しい雰囲気に身を包み、その場に立ち尽くしている。

「中の物は違うけど……外に飾られた旗は、みんな一緒か。信仰してた宗教のしるしとかかなあ……それか国旗?」
『国旗、聞いたことはあるぞ』
「何をするものなんですかね……?」
「えっ、……うーん……国のシンボルで……統一感とか……地域とか人の所属……を……いざ説明するって難しいな、国旗ってなんだ……!?」

アインスとペスジアの視線の先では、建物すべてがどれも一様に、全く同じ図柄の旗を掲げ、数軒ごとに特段大きな旗も立てられている。 見事に街に調和した旗は、栄えた街をいっそう彩っていた。

「あれ?……わあ、綺麗だね。気のせいかと思った」
「わ、本当ですね。どこから……とか、考えても仕方ないでしょうか」

エスペランサが視界の端にはらりと風を受けるものを捉えて頭上に目をやれば、時折華やかに花弁が舞っていることに気がついた。人気の無い、静かな街であるはずが、歓声まで聞こえてきそうな心地がする。
街は、何かを歓迎している、らしい。

三人が奥へと進んでいけば、ついにBへと到着した。通路を抜け、広場に出るなり、 ぱらぱらと雨が降り始めた。
細かな雨粒は、眼鏡のレンズに張り付き視界を奪う。ペスジアはいくら拭えど晴れない視界に、困ったように口元を歪めている。

「うう、私これだと見えないので……すみません、噴水の確認お願いします」
「ペスジア、大変そうだね……よし、早く終わらせようか」

マップ上、重なった円は噴水だったようだ。エスペランサが足早に近づき、アインスもそれに続く。噴水の他はこれまでの通路と同様、建物が周囲を囲っていて、目新しいものは無いだろう。

「立派な噴水だーってくらいだなあ。憩いの場、みたいな」
「あ、ねえ、アインス。ちょっと見て。……船のとは違うかな、小さすぎる」
「え?」

エスペランサの指の先。噴水の吹き出す受け皿、水の溜まったその底に、コインや何らかの部品が大量に落ちている。エスペランサによれば船の部品とは異なる、全く別のものであるようだ。
そうしてそれらに紛れ、目を引く異物が、"何か"が沈んでいる。エスペランサが拾い上げた。

第十七話: テキスト

「……USBメモリ」

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第十七話: 画像

三人、顔を見合せる。みな、どこか表情が固い。
掬い上げたのは、水底に沈む誰かの過去だ。きっと、二度と目の当たりにしたくないような映像がそこにはある。誰かが息を呑む音がした。
ここには、噴水のほか目立つ特徴はないらしい。時間に余裕はあるが、USBメモリが見つかったこの場所には、あまり長居したくはない。

三人は帰路につき、Bに人の影はない。わずかに勢いを増した雨粒がタイルを鳴らす。話し声のないBには、雨音が響いていた。


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《____探索の道中にて》

「エマたちの知ってるおはなし、ウェルちゃんも知ってること多いの」
「そうそう、話合うからさ、多分ウェルテルも私たちと出身同じなんだろうな〜ってこの前言ってたんだ。だから……って、もし、こういう昔の話嫌だったら教えてね……?」
「いや、大丈夫だ。続けてくれ」

今日は少し違うところに行ってみようと誰ともなく言い出して、今、エマ、ハイル、リツィの三人はA-4の探索を終えたところだ。そうして道の脇に逸れてみたものの、木々が茂るばかりで特にめぼしい収穫は得られなかった。気がついたことと言えば、Cに近ければ近いほど木々の種類が減り、ついには割合多かった一種のみになることくらいだ。三人の誰も、植物に詳しい者はおらず、その木が何という名でどんな特徴を有した品種であるのか、検討もつかない。どこかで見たことがあるような、見たことなんてないような。エマとハイルは首を傾げたが、日常に無数に存在していた街路樹に埋もれ、その存在が思い出されることはなかった。
探索を終えた帰路、終業時間までは十分に時間がある。三人はA-4からそこに面する通路へ出て、雑談を楽しみながらのんびりと歩いていた。

「そう?ううん、みんな恋愛観違うかもしれないし……船員ってどのくらい知ってるのかわからないな。ねえリツィ、結婚式……とかわかる?」
「病める時も、のやつだよ」
「私健やかなる時もまでしか知らないや」
「エマも」

くすくすと笑い合い、どこかはしゃいでいるらしい二人がリツィを見上げる。友達と、恋の話をする。年頃の、普通の女の子同士、そんな当たり前に心を躍らせているようだ。

「結婚式か。知識としては知っているが……詳しくはないな。何故?」
「えっとね、ただの雑談として聞いてくれればいいんだけど……私たち出身同じだろうから、ウェルテルが喜ぶこともわかる、っていうか。愛を誓い合う?のが結婚式なんだけど、形だけでも小規模にでもやってあげたら、ウェルテル喜ぶと思うの」
「見てたらわかる。ふたり、恋人同士だから。エマたち、ともだちの幸せ応援したい」
「だからね、お節介かもだけど私たちから入れ知恵!」

二人は、楽しげに声を弾ませ、ああでもないこうでもないと当事者のリツィをそっちのけに議論を重ねている。その様が微笑ましくて、思わず、わずかに頬が緩んだ。二人を見るリツィの瞳はひどく優しい。

第十七話: テキスト

「心強いな」

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第十七話: 画像

誰も彼もが去っていき、世界の全てが敵だった。信じられるのは自分一人で、いっそのことと命を手放そうとまでした。そんなウェルテルが、今生きたままに船にいて、こんなにも友人に想われている。一人にしないと約束した自分の他にも、彼女を慕い、幸せを願ってくれる友人がいる。それがリツィには、自分のことのように嬉しかった。

「リツィからの贈り物なんて何でも喜ぶんだろうけど、やっぱり指輪がいいなあ……左手薬指に嵌めてあげたら絶対びっくりするし、絶対喜ぶよ」
「ウェルちゃん嬉しいと思う」
「ね!指輪……なんて無いもんね、ううん、今度の探索では指輪探す?」
「いいかも」
「ふふ、楽しみだ」

なんでもない話をして、時間はゆったりと、和やかに流れていく。

「……ん?」

ふと、遠くに人影を見た。夜になる前に戻るには、この距離ならばもう帰路につくべきだ。それなのに、こんな時間から一人、Sに入っていった、誰か。

「見えたか?」
「うん、誰だったかは分からないけど」
「……まだ余裕はあるが、そろそろ戻ってもいい時間だ。以降の単独行動は危険だな。様子を見てこよう」

リツィの言葉にハイルが頷く。エマは少し考えて、続けた。

「……トロイ、だった。」
「え?」
「今の、トロイだ。」

狭く暗い路地の奥、消えていったのはよく知る船員。気まぐれな彼女だけれど、口ではなんと言おうとも、定められたことを破ってまで単独行動に走る性格ではないはずだ。きっとそこには理由がある。

「声をかけて共に戻るくらいの時間はある。……早く行こう」

かつて、S▍A*E-▍**W202で船を飛び出した、自分のことが頭によぎる。ハイルは悪い妄想だと頭を振って、既に歩き出していたリツィとエマに続いた。不安に心を曇らせ、三人はSに向かった。


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《____2F廊下にて》

心地よい関係性が崩れてしまうこと。
朗らかな彼女に拒絶されること。
臆病な自分は、自身の行動を引き金に起こる変化や未来といった、可能性にすぎない身勝手な想像に怯えていた。
自分はどうせ糸に吊られた人形なのだから、糸の無い今、独りでに動くことなんてできようもない。そんな人間だから、自ら動いてみたところで悪い結末を招くだけだなんて、諦めていたのだ。
けれどルークは、過去に生きた自分を知ることで変わる努力ができるのだと教えられた。一人では辿り着けない答え、他人を頼る方法だって知らなかった自分が、人の言葉に揺り動かされた。

命令に従ってのことだったとはいえ積み重ねてきたのは罪と不幸だ。新しい環境なのだからそれらすべてを忘れて無かったことにして、自分だけが幸せになろう、とは思わない。そんなことは許されない。
これまで、他人のことも、自分のことすら幸せに出来ない僕だった。ならば、次はその分、人を幸せに出来たなら。何の償いにもならない自己満足だろうが、あの時尽きるはずだった命は何の因果かここにある。もう二度と人を不幸に陥れることなどないように、生きたい。

なりたい自分には、これからなればいい。
なりたい自分は、誰にも頼らず一人で生きていく僕ではない。人を避け、そのことでもしも誰かを傷つけたなら、それは、なりたい自分とは程遠い姿だろう。
船員としての"ルーク"では、きっと、こうしてなりたい姿を考えることもしなかった。既に、ルークは以前の彼ではないのだ。彼がこれから変わることが出来る証明は、もうその手の中にある。

ずっと、恐ろしくて避けてきた。
それを察知して、誰かに助言でもされたのか、彼女もまた肩を落としながらも距離を置いてくれていた。
手を伸ばせば触れられるほどの距離に彼女がいるのは、いつぶりだろうか。

「スー」

振り向いた翠は、驚いたように目を丸くしてルークを見る。
口を開きかけた彼女を制して、続ける。

「スー。今まで避けててごめん。狡くて、ごめん。全部伝える勇気は……今は無いんだけど、……こんな僕は、スーと一緒にいちゃいけないって思ったんだ」

自分の胸の内を言葉にして曝け出す。こんなにも素直に話すのは初めてで、どこか気恥しいけれど、これはきっと自分を変える一歩目になる。

「でも、そんなの間違ってた。僕はスーと一緒にいたい、スーと一緒にいられる自分になりたい。だからちゃんと、スーにも僕自身にも、誠実でありたい。……ねえ、スー。三回も言わないから、よく聞いて」

僕は。

「……好きだよ、スー。」

僕は、もう逃げない。

ぽかんと口を開けていた翠だったが、ルークの言葉をゆっくりと咀嚼して理解したのか、途端に目を輝かせる。花でも舞っていそうなほどに、彼女の表情は明るい。
衝動に任せて飛びついてきた彼女をよろめきながらも受け止めた。伸し掛られるのは重いし暑い、そう思うし文句も垂れるけれど、僕はこれが、案外嫌いじゃなかったりする。

「ワ、ワガハイも!ワガハイも、ルカのこと好きなのだ!!」
「ふふ、そっか」

きっと僕と君とでは意味が違うだろうけど、君が幸せそうに笑うのだからそれでいい。

細められた瞼の奥に、瞳が覗く。
翡翠は眩く輝いていた。


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《____管制室にて》

「……ああ、分かった。必要ないかもしれないが、確認も兼ねて一応指示を出しておこうか。」
「夜になったら、四人全員チョーカーを用いてウィンドウを立ち上げること。それと常にお互いがいることを確認し、朝になるまで身動きは取らないように。」
「あとは、何か問題があればすぐに連絡を頼む。些細なことでも構わないよ。君たちの判断で最適と思う行動を取っても良いが……くれぐれも注意すること。身の安全を第一にね。」
「もしも必要ならもっとマシな灯りが無いか探して僕が持っていくけど……、……うん、その通りだ、ごめん。分かった、それじゃあ頼むよ。」


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《____Sにて》

プツ。通話が途切れる。リツィがそのまま、ウィンドウで時刻を確認すれば、終業時刻まではあと半刻ほどであるようだ。半刻後には辺り一面闇に染まるとは思えないほど、周囲は昼間と変わりない。この欠片に、黄昏はない。

「ハイル、エマ、聞いていたか?」
「うん。夜になったら、灯りつける。何かあったら連絡する。」
「大丈夫だよ。連絡ありがとう」
「よし。トロイも、いいな?」

トロイは、壁にもたれかかって、手元の小さな何かを見つめている。リツィはハイルとエマに指示の確認をして、少し遠くに座り込むトロイへ声を投げた。

「はい、大丈夫っス。……すみません、私に付き合わせちゃって」
「ううん、私たちが勝手にやってることだから気にしないで。……無理に話したりしなくてもいいから……危ないことしないで、ちゃんとここにいてくれればいいよ」
「……今日だけ、少しだけなので。すみません、本当に」

俯いたトロイはそれ以上話そうとしない。三人もまた、深く踏み入れようとはしなかった。

三人がSに辿り着いたとき、トロイは今と同様に、隅で隠れるようにして膝を抱えていた。呼びかければすぐに入口へ顔を向け、トロイはいつものように返事をした。彼女の座るそこには深く濃い影が落ちていて、Sに立ち入ったばかりで目が慣れていないうちにはそんな場所にいる彼女の表情は窺えない。だから、返事をするまでの一瞬に覗いた、怯えたような苦い顔を、入口付近、エマの背後にいたリツィとハイルはきっと知らなかった。

「夜が近い。今ならまだ、明るいうちに船に戻れる。私たちも戻るところだ、一緒に行かないか?」

単独行動をとっている理由、この時間になってSで座り込んでいる理由。それらをあえて訊くことはせず、リツィは簡潔に、要件だけを伝えた。リツィの言葉に目を開き、声を揺らしてトロイが答える。

「……い、嫌だ、すみません、私……私は、一人で戻るんで……」

いつもの調子を保とうとして、それでも動揺を隠せていないトロイの声は、取り繕うことも出来ない危うさがあった。これに異変を感じないはずもなく、彼女の言葉を素直に信じることも出来ない。このままこの場を去ったなら、少なくとも今夜は、トロイは船に戻らないだろう。
世界の欠片には、基本的に、命を奪うような脅威はない。けれど、7⊃NB3R-J▆CKL9での鮫や翠のような前例があるのだから、いくら一人になりたいと願っているとはいえすんなりと聞き入れる訳にはいかなかった。
そのことを伝えても尚、彼女は戻ろうとはしない。話していれば、少しずつ、貼り付けていた「いつも通りの船員のトロイ」が剥がれ、断片的にだが彼女が思いを零していく。

「……危ないのも、迷惑をかけることも、わかってる。でも、…………少しだけ、船から離れたい。私は船にいたくない……」

ディスクを見て自分を知って、あれから一日が経った。どうにか、トロイとして船で過ごしてみたけれど、その名を呼ばれ、下手な敬語を話す度、自分が削れていく感覚がした。船にいれば、私は私を見失ってしまう。私が、どこにもいなくなってしまう。ヘーゼルなんて誰にも必要ないのだから消えてしまっていいだとか、そんな風に思い切ることなど出来なかった。
ほんの少しだけ、一瞬だけ、そんな環境から離れたかった。船はトロイの痕跡ばかりで、どこにいたって、自室でさえ気は休まらなかった。だから、ほんの少しだけ、休みたい。トロイのいない場所に行きたい。
そう思って、終業時刻を前に、彼女はSへ逃げてきた。

船にいたくない、トロイはそれだけ告げて、膝に顔を埋める。戻る気がないと悟った三人は、それならばとここに残ることに決めたのだ。一人にするのは危険だが、彼女の気持ちを無下にして無理やり連れて帰ることもしたくない、その末の決断だった。

そうして、リツィがその旨を船長へ伝え、今に至る。
トロイが船に戻りたくない理由は三人には分からないが、船という場所の構成要素の一つである自分たちも彼女を苦しめるのだろうと、三人は距離を置いて、ただ、いつものように過ごしている。過度に干渉せず、そこにいるだけだ。
トロイは、手元の見慣れた葉をじっと眺め、指先で撫でた。Sに向かう道中、道端に佇むハシバミに気がついて、思わず葉に手を伸ばしたのだ。所在なさげにそれをひらひらと弄び、彼女はまた大きく息をついて、目を瞑る。自身を取り繕う必要のない空間。遠くの何気ない会話は、耳触りが良くて心地いい。

「夜、ちょっとだけ楽しみ」
「もうすぐだね。一人になったら怖いな……エマすぐ傍にいてね。」
「うん。隣、いる!」
「ふふふ、ありがと。リツィのことは暗くなっても見失わなさそう」
「白いから?」
「上着を着てきて正解だったな」

迎えた、終業時刻。
ふっ、と視界が失せた。

「全員起動したな。……よし」
「こ、こんな急に変わるんだ。ほんとに真っ暗だね」
「うん。この画面あるとちがう。みんなのことわかりやすい……」

ちら、とエマがトロイに目をやれば、ウィンドウの淡い光に照らされながら、変わらず膝を抱えている。左手の先、尖った葉の先端がくるくると動くのを見て、先程までと変わりなく過ごしていると、安堵した。

身を包む黒い制服は闇に重なり、身体の輪郭がぼやけ境界なんて消えてしまったかのような、そんな錯覚に溺れてしまいそうになる。このまま夜に溶けてしまうのも案外悪くはないかもしれない、なんて、起こりえない想像に浸ってみたり。そう簡単に楽にはなれないと知っているのに、こんな想像ばかり、自分は現実から逃げてばかりだ。

「……?」

考え事から意識を戻せば、何か、指先に違和感があった。
トロイが左手を持ち上げて灯りの近くに手を寄せれば、先程まであったはずのあの葉が消えている。考え事をしているうちにすり抜けて、足元にでも落ちたのだろうか。

「!なんだ。……帽子?」
「リツィ?……あれ?帽子……ほんとだ、無いね。落ちた訳でもなさそう?」
「周りにも無いな」
「白くなくなった……」

どうやら、三人にも何かが起きているらしい。あの葉は懐かしさから思わず摘んでそのまま感傷に浸っていたのみだから、無くなったところで全く構わないが、ひとまず自身の周りを探ってみる。やはり、無い。どこにも、何も無い。

「ね、ねえ。私も持ってたものも失くなったかもしれない……」
「え!……だ、大丈夫?」
「ああ、えっと、……大事なものとかじゃないから大丈夫。ありがとう」

何かが、起きているのかもしれない。トロイと呼ばれることは今の彼女にとって重荷だが、何かが起きているとしたら、そんなことで三人と距離を置いている場合ではない。三人を巻き込んだのは自分だ。今更トロイのように話そうなどとは思わないし、出来そうもない。きっと見て見ぬふりをしてくれる。それなら、少しでも情報の共有をしておくべきだ。
トロイは自身の身にもリツィと同じことが起きたらしいことを伝え、三人の近くへ移動した。四人が一箇所に集まれば、淡い光もひとつの大きな光に変わる。自由に身動きを取るには心許ないが、じっとしていれば身の回りくらいならお互い見渡すことが出来そうだ。

「朝になったら探してみよう。視界が悪いまま無闇に動き回るべきじゃない。……私とトロイに起きたなら、二人にも何かあるかもしれない。持ち物が一つ奪われるんだろうか……持ち物に変化はないか?」
「エマは……えっと、大丈夫そう。みんなある。」
「確認してみる。……え、あれ?……携帯用の医薬品ポーチ、なくなってる。ポケットにあったのに」
「ハイル、そんなの、持ってたの?」
「目の前で怪我されたとき、手元に何も無いせいで手当出来なかったことあったから、それから持ち歩くようにしてたの。でもなくなっちゃった」

自分自身で確認し、他の三人も見渡し、それでも地面には何も無い。やはり、自然に落とした、どこかで失くしたなどとは考えづらい。これも、欠片で起こるという"不思議な現象"なのだろうか。
身構え、四人、黙り込む。そのまましばらく経ったが、エマの持ち物には依然変化がない。ここで異変が起きたことは事実だが、緊急性は無いものと判断し、ひとまずこのまま、他愛ない会話を交わして朝を待つことにした。

「……もうすぐ夜中か。早いなあ、話してるとあっという間だ」
「エマ起きてるから、寝ていいよ?トロイも」
「いや、大丈夫。みんなの話聞いてると、なんか落ち着くよ。……いてくれてありがとう」
「へへ、エマたち、お礼いわれちゃった。どういたしまして」
「そう思ってくれたの嬉しいなあ、どういたしまして!あ、あと私もあんまり眠くないから大丈夫だよ。……ねえリツィ、帽子いいの?」
「ああ。どうとでもなるさ。見つかれば何よりだが」

気安い会話のその隙に、

「だね、見つかったらいい、な……、エマ!?」

パチン、と、どこかで音がした。

音と共に、失われたのはひとつの灯り。エマのウィンドウが途端に消えて、それにより照らされていたエマの姿は見えなくなった。息を呑んだ。咄嗟の出来事に、思考はうまく働かない。

「落ち着けハイル、大丈夫だ、エマは横にいる」

リツィの言葉に、トロイも頷いている。確かに、ハイルの隣には体温があった。そうだ、灯りが足りず見えないだけで、自分はエマは身体を寄せあっていたのだから、今もこの場にいる。そう思えば途端に頭が冷えていった。

「あ、ああそっか、……よかった……はあ、もう、びっくりした、エマ大丈夫?怪我とかない?」
 
たとえ一瞬だとしても、隣にいるとわかっていても、視界から親友が消えたのだ。動揺からか、いやに鼓動がうるさい。
いっそう身を寄せて、灯りを分け合うように座る。エマの姿が見えて、胸を撫で下ろす。

「あ、ええ……?」

エマは混乱しているのか、突然のことに何が起きたか理解が追いついていないのか、目を丸くしてリツィやハイルを見るばかりだ。きっとこれは、例の、不思議な現象のひとつだろう。彼女が失くしたものはすぐに検討がついた。

「エマは、これか。」

リツィが自身の首元を指で叩く。船員ならばみな、いつもそこにあるはずのチョーカーが、エマの首には見当たらない。
チョーカーがない、それだけでひどく違和感がある。見慣れない姿にトロイが言葉を零す。

「……これ外せるんだ、知らなかった」
「うん。外してるの、見たことない。無いとこれから不便だよね。代わりあるのかなあ……。……エマ、ねえ大丈夫?体に異変とか……」

ハイルがエマを覗き込めば、未だ瞳を揺らすエマが、口を開いた。

「なに?なんて言ってるの、……みんな」
「……え?」

第十七話: テキスト

「や、やめて、こわい……みんなの声なのに……全然、わからない……きもちわるい……!!」

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第十七話: 画像

暗闇の中、青い灯りに照らされていては、その顔色は窺えない。それでも、エマの表情が恐怖に染まっていることは理解出来た。震える声はエマから三人へ向けて一方通行で、今、いくら言葉をかけようと、エマに恐怖を与えるばかりだとは容易に想像がついた。声を呑み込み、喉が詰まる。

そうだ、どうして気がつかなかったんだろう。
船員はみな、違う世界の人間だ。本来、生涯交流することのない者同士で、そんな間柄で、用いる言語が同一であるはずがなかった。いくら似た世界に生きてきたって、船員はみな別の世界の住人だった。道具ひとつ足りないだけで、言葉を交わすことすら叶わない、他人。これが、本来の船員たちの関係性だ。

チョーカーが無くなった。それが原因で、チョーカーを失くしたエマだけに言葉が通じなくなった。詳しくは分からないが、きっと、チョーカーは翻訳機のような役割を果たしているのだろうとは予想がついた。
トロイが、かたく眉を寄せる。思い浮かべたくなくたって、勝手に浮かぶ、大切な人。本物の家族である彼らはきっと、こんなことも例外なのだろう。自分の声も二人の声も、これが無いと届かない。自分一人、違うのだ。次々現れる、大切な二人と自身の差や、違い。そんな現実が、肩に重く伸し掛る。
衝撃に身動きを取れずにいるハイルを見遣り、自分の心配事をどうにか振り払おうと軽く頬を叩いた。トロイが、小さな声でリツィに告げる。

「……、リツィさん、報告しよう。言葉が通じないのは危ない」
「ああ」

リツィはひとまず、エマと目を合わせ、声を発さず身振りで彼女にチョーカーが無いことを伝えた。どうやらエマは自身のチョーカーに気がついておらず、リツィの仕草から同様に首を撫で、そこで初めて首元の装飾品が無いことを自覚したらしい。エマはただ、灯りが消えたのち突然耳に入る、まるで中身の理解できない言語に怯えていたようだ。
エマが理解したことを確認して、リツィは一度三人の元を離れた。それは、声が届きづらい場所へ自身を遠ざけ、エマを怯えさせないための配慮なのだろう。エマに、自分たちのこの言葉がどう聴こえているのか、三人には分からない。
リツィが船長へと報告し、指示を受けた。その状態で移動するのは危険だから予定通りに朝まで待機しろ、簡潔にまとめてしまえばそんな内容だったという。チョーカーについては、「用意しておく」らしい。
兎にも角にも、夜が明けなければ行動は起こせない。
四人は、Sで朝を待っている。


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朝を迎え、その瞬間に世界は晴れあがった。前触れもなく闇は明け、眩い光に目がくらむ。辺りを見渡せば、中心にいた四人を囲むように並び立つ屋台、そのひとつに、失せ物は陳列されていた。対価を要求するでもなく、リツィの帽子もハイルのポーチも、ただ並べられているのみだ。何か暗黙の了解があるのかもしれないが、四人の誰も、Sのルールなど知らなかった。罪悪感を抱きつつ、必要な失せ物を手に取ってSを去った。
ただ、エマのチョーカーだけはつけ直すことが出来なかった。船に戻り、船長が用意しておくという物に期待するほかないのだろう。

帰船したらエマを連れ船長室の前に来るようにとの指示だった。頑なに船員を入れなかった船長室に招集されたことに、少し違和感を抱きつつ、到着したその足で船長室に向かう。四人に気がついたらしい船長に声をかけられ、入口付近で足を止めた。やはり、簡単に中には入れないらしい。

「お疲れ様。君たちの身に大事がなくてよかった。ゆっくり休んでくれ……っと、エマにはこれは通じてないんだったな。すぐにつけようか。……チョーカーのこと、気にかかるだろうけど、これはまた改めて全員に伝えるよ。今説明してもいいんだが、現状を一番知りたいだろうエマがわからなければ意味が無い。でも、きっと想像している通りだよ。何か疑問があれば、また訊いてくれればいい。君たちが生きていくために必要な情報は惜しまず伝えよう。……それじゃあ、お疲れ様。」

三人へ向けてそう告げて、暗に、出ていくようにと指示を出す。船長はエマに向き直り、笑って、彼女を手招いた。


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《____シアターにて》

船長から渡されたUSBメモリを、手の中で転がす。
自由に扱っていいとの説明を受け管制室を出たその時、船長に連絡が入ったようだった。終業時刻はまだ半刻ほど先だ。なにか胸騒ぎがしたけれど、存在を主張する無機質な過去に思考を乱され、まともに力になれそうにはない。今ばかりはと、自分を優先することにした。
個室に戻り、少しばかり物の多いベッドに寝転んで照明に透かしてみたが、当然何かが浮かび上がるなんてこともなく、顔に四角い影が落ちるのみだ。
彼女は知っていた。映像は、失くして忘れた非情な現実を映し出すのだと。それが自身のことならば、もし映像に実感を伴ったならば、この身を襲う痛みは第三者として観たその時の何倍にも膨れ上がるのだろう。知っているから、躊躇っているのだ。ペスジアは、当たり前に痛みを恐れている。

自分の過去なんだから、他でもない自分自身は知るべきだ。忘れてはいけない、背負っていかなければいけないものが、そこにはあるのかもしれない。けれど、知ることには、身を裂く痛みが伴う。必ず辛い思いをする。見るべきだという義務感と恐怖との間に揺れて、ため息をついた。

「……私は、どうすればいいですか?」

エンペラーに問いかけてみたけれど、返事はない。うまく、返事が浮かばなかった。
再びUSBメモリを見る。それはやはりただそこにあるのみで、シアターに向かわない限りは何を語ってもくれないのだ。……こんな小さな中に、誰にも見つけられず、かつての自分は詰め込まれて眠っている。そう思うと、なんだか、揺り起こしてあげなければならないという思いが湧いた。そして、それが出来るのは自分だけだ。

「……」
『俺がついてるから、大丈夫だ!』

一人きりだ。自分一人で、どうにか自分を鼓舞し勇気づけている。
今はもう夜で、甲板も黒に塗られている。これから再生して、見終えて、再び個室に戻ってこられる気はしなかった。だから、朝になったら、始業しみんなが探索に出たら、シアターに向かおう。
決意が鈍ってしまう前に無理やり寝てしまおうとしたけれど、頭が冴えて、眠れなかった。

そうして、闇が消え去り明るくなったいつもの甲板に向かった。周囲を見回し人目が無いことを確認して、シアターの扉を開ける。無心に再生準備を終えて、席に座り、呼吸を整えていた。
怖い。けれど、向き合うべきだろうと思う。
ひとつ指の先に力を入れれば、それだけで、過去の自分は目を覚ますのだ。

わずかに震える指先に、そっと、力を込めた。


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____開演____


【××の薄倖】

街は生きることをやめて、世界は死んだ。

……

綺麗な世界だったと思う。
黒煙が天へとのぼり、金属の擦れる音が響く街。生活を支える、計算し尽くされた人工の奇跡に耳を傾けることが、あたしは何より好きだった。

膨大なパターンを予測・計算し、それを形にする。そこには寸分の狂いも許されず、日常に欠かせない「歯車」の作成には高度な技術を要する。世界のすべては、そんなふうに生み出されていた。車も家具も、動物だってそんなふうに。片手に収まるほどのちっぽけな歯車が世界を動かしていて、ひとつ何かを誤ったなら世界の時はたちまち止まる。
見事に噛み合い作用するそれらは、人が造りだした奇跡だ。あたしのお父さんのような「技師」は、そんな奇跡を起こす技術を有した職人をいう。誰しも将来の夢として一度は挙げたであろう技師が、生来、技師である父の背を見続けてきたあたしの夢として掲げられるのは至極自然で、当然のことだった。真似事をはじめるのも、父の営む腕時計屋を手伝うのも、最も身近で憧れの技師に師事を乞うのも、みんな当たり前。きっと、あたしの歯車はそんな形をしていたのだ。



第十七話: テキスト

「お父さん!出来たよ、見て!」

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第十七話: 画像

手に染み付いた鉄のにおいだって、まともに物を掴ませてはくれない黒い油だって、好きだった。あたしが品を見せたなら、目を細めては無骨な手で頭を撫でて、けれど次へ繋がるよう的確に助言をくれる父のことも、大好きだった。

「また腕をあげたんじゃねえか、【シオン】?お父さんはお前のこれからが楽しみだ!」

……

生きていくには水がいる。
湧き続ける地下水をもってしても、すべての民が永久的に、家庭で自由に水を利用するには到底足りず、人々は水という限りある資源を分け合って生きてきた。
歯車により労力が省かれていくこの世の中で、唯一、井戸だけは人の手や労力が必要とされている。これは、決まりに沿って動き続ける歯車では不要時にも水を汲み続け無駄にしてしまう可能性があることを踏まえての対策、と公には言われている。しかしこの真の目的は、水汲みをあえて重労働のままにしておくことで、その機会を減らそうとする人の心理を利用し水の消費を抑えることにあるのだろう。

水の調達には苦労する。代々、この世界の人間が抱えた悩みだった。
だから、ある日突然天から水が降り注いだとき、これは恵みだと、これを溜めれば楽になると、街の者はみな喜んだのだ。

すべてが歯車で形作られた世界。当たり前に空から雫が零れ落ちてくることなんてこれまでに無くて、これは、人々が経験する初めての「雨」だった。

雨のことを天の恵みと呼んだのは、ほんの一瞬だった。
生活用水は十分に溜められているのに、街から笑顔は消えてゆく。その原因は、街の至るところで働く歯車が雨に曝され、その動きを止めつつあることにあった。大好きだった奇跡の音は耳障りな雨音に掻き消され、いつしか、街は歯車の音色を忘れていた。
予期せぬ天災を前に、人工の奇跡は無力だった。ならばその奇跡は紛い物だった……なんてほんの少しも思わないけれど、あたしたちは他に生きる術を知らなかった。絶え間なく降り歯車を枯らしていく雨に抵抗する術もまた、知らなかった。

街が、ゆっくりと死んでいく。雨が降っている。
ちっぽけで無力なあたしたちは、愛する我が故郷の死にゆく様を、指をくわえて眺めることしか出来なかった。止んでくれ、元に戻ってくれと淀んだ空を睨みつけて、けれどそこから生まれた水を飲んで、人々だけが生きていた。
____あたしを除いて。

「嫌だ。絶対に、嫌!あんなの飲んで生きるくらいなら……!」

雨を憎みながら、その恵みを享受する。どっちつかずなそんな態度も、雨を恵みと捉え、あまつさえ飲んで生きていくなんてことも、あたしには耐えられなかった。父が困っているのを理解して、それでも強情を貫いた。一度は説得しようと口を開きかけた父だったが、少し考える素振りを見せ、ふっと力を抜く。そうして、笑って言ってくれたのだ。

「シオン、……そうか、じゃあこれまで通りにするか!いつも通り、俺が水を汲んでくるよ。シオン一人の分なら大した量じゃないしな。お父さんに任せとけ」

……

ある日を境に、人もまた、ゆっくりと死にはじめた。雨が降っている。

やっぱり恵みなんかじゃなかった。雨は、街だけでは飽き足らず、そこに生きる人さえも殺そうとしている。あたしの大切、そのすべてに魔の手を伸ばしている。
床に伏せた父を前に、周囲に助けを求めたが、他所に手を貸せるような余裕は街のどこにもなかった。どこも同じ状況だと知ったのは、心優しい隣のおばあちゃんに、悪いけど、と話すら聞いてもらえなかったその時だ。眉間に皺を寄せて、悲痛に、突き放す言葉を絞り出したおばあちゃん。その顔色はひどく悪く、父と同じく体調を崩していたから、万が一自分からうつったりなんかしないようにと気を使ってくれたのだ、と理解するまでにそう時間はかからなかった。
日に日に増えていく病人、原因は、辛うじて身動きの取れた医師が突き止めた。それは、雨に含まれていた、人体に有害な毒素だという。微量だったならば無害な毒は、生活用水として雨を用いることで蓄積されて、いずれ致死量に至る。ゆっくりと確実に身体を蝕まれ、街と同じ道を辿って、人は、じきに物言わぬ抜け殻となる。お父さんも、きっと。

手元に十分なほど水があるのに、あえてこれまで通りに水を汲んで、生活には地下水を用いていた。そんな稀有な存在は、ここいら一帯において、あたしくらいだったようだ。あたしだけが、わがままを言った未熟な子供だけが、健康に生きている。

「……お父さん、具合、大丈夫?」
「大丈夫だ。……でも、指が、動かしづらくなっててきてなあ。これじゃあ、雨が止んでも仕事なんて出来そうにねえ」
「……!!」
「まあうちには優秀な跡取りがいるから、大丈夫か!」
「な、治るよ!雨が全部悪いんだから、雨さえ止めば、……治るよ……」
「……雨、止むといいな」

奇跡を生み出す技術を宿したその腕を、手入れされていない機械のようにぎこちなく持ち上げて、父はあたしの頭を撫でた。少し痩せて、骨が目立つようになった父の手は間違いなく病人のものだ。けれど、手のひらの至るところに未だ残る、固まった胼胝は、父が確かに技師であったことを示していて、変わらぬそれに視界が滲んだ。一度零れてしまえば、涙は堰を切ったように溢れ出る。

現実を見られない馬鹿の振りをして、それでも本当は分かっていた。
父の命が長くないことも、雨は止まないことも。
父も世界も歩みを止めて、そのうちに、その生を終えることも。


第十七話: テキスト

遺す家族がこんな泣き虫では、父に未練を残してしまう。心配をかけたくなくて、大丈夫だと歪に笑って、必死に目元を拭った。

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第十七話: 画像

お父さんは、我慢しなくていいとあたしの腕にそっと手を添え、寂しげに笑った。

「……シオン、一緒にいてやれなくて、ごめんな。」

……

街が死んだ。人が死んだ。世界は、死んだ。雨が降っている。
あたしは生きている。あたしだけが生きている。
父が亡くなった。分かっていたけれどそれでも受け入れ難い現実に、呆然と日々を過ごして、水が尽きたから地下水を汲みに外に出た。そのとき初めて父の死に実感が湧いて、泣いた。無防備に雨に打たれ、ひたすら泣いた。外だったけれど、もうこの街では人目を憚る必要もない。そんな現実が憎くて、苦しくて、また泣いた。枯れることがない涙は、とめどなく降り注ぎ、あたしの身体に打ちつけている雨のようにも思われて、吐き気がした。いつか父が褒めてくれた何代目かの腕時計も、このときついに、動きを止めた。

あたしの歯車が狂ってしまったのも、お父さんの歯車が錆びついて動かなくなってしまったのも、みんな雨のせいだ。街に響き渡る歯車の音色も、立ち込める油のにおいも、あたしの大好きな世界の全部、雨に流し去られて奪われた。雨は未だ、降り続ける。これ以上あたしから何を奪おうというのか、何も、ひとつも、この手には無いというのに。

きっと、あたし一人を追い込むつもりなどないのであろう、残酷な自然。
そいつは、あたしのすべてを取り上げておいて、それでもなお変わらずに。
あたしのことなど目もくれず。何食わぬ顔をして。
それが当たり前と言わんばかりに力を誇示して。


第十七話: テキスト

雨が降っている。
ざあざあと、止まない雨が降っている。

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第十七話: 画像

【シオン・アスターの薄倖】


____終演____


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スクリーンは暗転して、シアターには灯りが点る。
映像は終わった。シアターは、無音の空間になった。
それなのに未だ雨音は止まない。耳にこびりついて、離れてはくれない。何もかもを奪っていった、自身の無力を突きつけるその音が、ずっと、ずっと頭に響いている。

どうしようもなかった。ただ、起きた事象に流されるほかなかった。願うことしか出来なかった。それなら中途半端に抗わず、我儘なんて言わず、為す術もなく世界とともに、父とともに死ねたらよかった。

「……、お父さん…………」

もし父にも雨水なんて使うなと言えていれば、父は、生きていたのだろう。偶然にも生き残る道を選び取ったのだから、きっと、父のことも救えたはずだった。家族二人、細々とでも、生きていられたはずだった。……あたしのせいで、そんな未来は閉ざされた。戻れない日々に、自責も後悔も、募るばかりだ。

耳元で、絶えず雨が降っている。どうにか雨音を剥がしたくて耳に爪を立てた。爪の先に赤が滲んで、耳元から伝い、滴り落ちていく感覚がしても、何度も、何度も掻きむしった。それでも雨音は剥がれない。雨は止まない。痛くて堪らないけれど、それよりも、それ以上に、雨から逃れたかった。
溺れている。息がうまく吸えなくて、心臓が痛い。
父のことを忘れて生きていた。あんなに大切で憧れていた、大好きな父のことを忘れていた。その事実もまた苦しくて、顔が歪む。四肢の先が冷えていく。
話したいことがたくさんある。伝えたいことがたくさんある。どうして父は、傍にいてくれないのだろう。視界の端、横たわるペンギンのパペットが目に入る。口調ばかりが父に似たパペットだ。笑えるくらいに虚しい、ひとり遊びだった。父のことを思い出した今、もう、紛い物のそれが話すことはないのだろう。

自ら傷をつけた、熱をもって痛む耳元。痛みも、手が汚れることも気にしないで、柔く弱々しい自らを守るように身を縮め、耳を塞いだ。

未だ頭に響く雨の音は当分止みそうにない。


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第十七話: テキスト
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