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第四話

第四話: ④

《____ローレの個室にて》


まさかあんな内容だなんて思わなかった。そんなつもりは無かった。

すべて終わってからそんな言い訳をしたところで事実が変わる訳でもない。自己満足の言い訳で、救えるものなんてあるはずない。


ボクはハイルに、取り返しのつかないことをしてしまったのだろう。


ローレは、後悔に苛まれていた。あの後、定まらない足元を心配してかペスタが部屋まで送ってくれた。そのまま食事も摂らず、ずっと後悔し続けている。あれが事実かどうかなんて考えるまでもない。

映像の直後、泣きながら乱暴に立ち上がった彼女を止めようとして、ぶつけられた言葉を思い返す。


「私……ッ、こんなこと思い出したくなかった……!!見ようだなんて、思わなければ良かった……!!」

……キミは止めていたのに、無理に見ようと押し切ったのはボクだ。


ローレを睨みつける、敵意ある瞳。穏やかで心優しいハイルに、そんな顔をさせてしまったのは自分以外の何者でもない。

半ば八つ当たりではあったのだろうが事実は事実。何を言い返すことも出来ず、受け入れるしかなかった。受け入れようと、噛み砕こうと、視線を外した途端に彼女はシアターを出て行ってしまっていた。


眼鏡を外してベッドに横たわり、腕で両目を覆う。適度な重みはぼやけた意識をさらに沈め、薄まることのないであろう自責の念は心に鈍い痛みを与えている。

「知りたい」。自身のそんな思いに巻き込んだせいで、傷つけてしまった。何も知らない方がいいだなんてことは絶対に無いけれど、少なくとも今は何も知りたくない。……ボクのせいだ。

起きていたって気分は沈んでいくばかり。眠ってしまえば楽なのだろうが、そう簡単に眠れるものでもない。


……思えば爆発事故が起きて世界の欠片に停泊したことも、ウェルテルがいないことも、今回のことも、すべてが非日常だ。変化は時に、本人がいくら不変を望もうとも、誰しも平等に、有無を言わさず訪れるらしい。

この生活が始まった時点で日常は死んでいた。なのにまだ見ぬ世界に心躍らせて、外にばかり目を向けて、船内の異変になんて少しも気づきやしなかった。ボクは、本当に。……ローレは、後悔に苛まれていた。



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《____ウェルテルの個室前にて》


また、足を向けていた。知らぬ間にこの場に立っていた。

ウェルテルの個室前、一人佇むのはリツィだった。彼女は、あれからふたつの眠れぬ夜を過ごしている。

常にこんな生産性の無い行動をとっている訳にもいかず、また解決策だって浮かぶものでもなく、漠然と仕事をこなそうと外に出た。仕事をしていれば考えなくて済む、実際に部品を見つけることも出来た。リツィはそうして機械的に過ごしてきた。……しかし現実はどうだろうか。今、リツィはウェルテルの個室の前にいる。

…………。

ウェルテルが閉ざしてしまっているであろうこの扉。

もしもこれが開いたなら。

傍にいる、それだけでもさせてくれないだろうか。

わずかな望みと、賭け。もし開いたなら、ウェルテルと話そう。

ゆっくりと、壁に掛けられた愛しい彼女の名前を撫で、リツィはそっとその下に手を触れる。

____静かに扉が開いた。


暗い部屋の中、ウェルテルは床に座っていた。膝を抱え込んで、震える肩は強ばっている。もう泣いてはいないが、その心は今も悲しみに暮れているのだろう。悲痛な表情、あの時のまま。

どうやら鍵は、自分で開けた訳ではないらしい。船長が入った際に開けたままだったのだろうか。……いや、そんなこと、どうでもいい。

泣き腫らした目元は赤く腫れており、顔に生気はない。ぼんやりと虚空を見つめている。どれほど自分を責めたのか、どれほど辛い思いを、一人で抱えさせてしまったのか。

ウェルテルはきっと計り知れない絶望に襲われている、ウェルテルの気持ちなんて私には分かるわけない、出来ることなんてあるはずない、温度のない薄い金属を隔ててリツィはそう決めつけていた。……実際に目にした瞬間、彼女のしていた想像なんて、話そうとしていたことなんて、すべてが頭から抜け落ちてしまった。考える間なんてなかった。思わず、体が動く。


一刻も早く、彼女の傍に。

ウェルテルの隣、床に膝をつく。彼女はゆっくりと、緩慢な仕草でこちらを見た。……見たのだろうか、見えているのだろうか。


親友が、想い人が、たった一人で泣いている。苦しんでいる。

一人きりで、感情の渦に呑み込まれて、今もなお溺れている。 息は出来ているのだろうか。私の声は、届くだろうか。これを捨て置けと、そんなことが出来るはずもない。どうして今まで顔を合わせようとしなかったのか。何かを考える余裕もない。衝動のままに動く。

第四話: テキスト

____力いっぱい、彼女を抱き寄せた。

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第四話: 画像

私がいる。伝われ。私はいなくならない。伝われ。あなたは、ひとりじゃない。

ふっとウェルテルの強ばった体から力が抜けた。

ああ、あたたかい。ひとりでいたのに、どうしてだろう。慣れ親しんだ体温と、ここに生きていることを主張する心音。安心する。これは、

「…………リツィ……?」

ウェルテルが、リツィを見る。リツィは、言葉を紡ぐ。

心からの想いを、あなたに。


「ウェルテル」

「大丈夫、私がいる」

「私はいなくならないよ」


伝われ。

第四話: テキスト

「生きよう。一緒に、これからも。」

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第四話: 画像

……ウェルテルが目を見開く。

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第四話: 画像

何も捉えなかった瞳がリツィをじっと見て、そうして唇を噛み締めた。


____今のアタシは、『ウェルテル』は、ひとりじゃない。そっか、そうだよね。ほんとだ、リツィの言う通りだ。


アタシには、リツィがいる。


「う、あ、うあああ……うあぁああん……!!」

縋るようにリツィを抱きしめ、ウェルテルは初めて年相応に声を上げて泣いた。枯れ果て、朽ちようとしていたウェルテルの心に火が灯る。

一人ではない。それだけで救われた。

彼女は、リツィと生きていく。



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《____管制室にて》


始業時間。


「ウェルテルちゃん復活!いや〜マジ心配かけたね!ごめん!」


久方ぶりに朝礼でウェルテルが姿を見せた。その顔は晴れやかだ。以前と何ら変わりない様子に、ペスジアは胸を撫で下ろした。

泣き喚き、唸り、崩れ落ちて、いなくなってしまったのだと思った。

ペスジアはずっと、何も出来ない自分に、その無力さに心を痛めていたのだった。


「もう……大丈夫なのか?その……」

口篭りながらも、メルトダウンがウェルテルを気遣う。ウェルテルはそんなメルトダウンに驚いたような顔をしたが、すぐににっと笑ってピースしてみせた。メルトダウンの顔が心なしか安堵に緩む。彼なりに気にしていたらしい。

心配した、体調は大丈夫なのかと船員たちはウェルテルを囲んで言葉を交わす。ウェルテルは戸惑いながらも笑顔だ。矢継ぎ早に聞かれる、休んでいた理由については決して口を開かなかったが。


……和やかに皆と話しながらも、船員たちの死角でウェルテルはリツィのコートを固く握っていた。リツィのほか気がついている者はいないだろうが、その足もわずかながらに震えている。

リツィは、夜、涙ながらにぽつりぽつりと零した彼女の本音を思い出す。


自分は世界にひとりぼっちだと感じていた。きっと、仲良くしてくれていた船員や船長だって、みんなみたいにいなくなってしまう。それにあんなことをしておいてみんなのことを忘れて、呑気に暮らしてきた自分にも嫌気がさす。辛かった。後悔した。

支離滅裂で、整合性なんてとれていなくて、思うがままに零れたそんな台詞は紛れもなく彼女の本心で。そんな風にしか語れないことが何よりもその証明だった。

一通り話したあと、ふと静かになったウェルテルを見た。

「……ねえリツィ。アタシ、信じてるよ。リツィのこと。誰よりも信じてるし、大好き。……ずっと傍にいてね。目、離さないでね。アタシのこと、見てて。」

ウェルテルはそう言って、少し照れくさそうにはにかんだ。

____この笑顔を守ろう。私が傍で、ウェルテルのことを守りたい。

そう決意して、今この場に立っている。

リツィはウェルテルを庇うように、彼女の半歩前に立っていた。


ウェルテルの復帰に湧く管制室だったが、どこかおかしい。普段であればいの一番に声を上げるペスタはどことなく元気がなく、ローレも一歩引いて、人目を気にするように小さくなっている。

また、見渡してみれば管制室にはシンシアやハイルの姿がない。

……通常業務を行えなくなって以来、つまりこの世界の欠片に停泊して以来。船内にわずかな亀裂が、綻びが生じているような。

シャルルは言い知れぬ違和感を覚えていた。親友やハイルは一体どうしたのか。何故ウェルテルは個室に篭っていたのか。何故爆破事故が起きたのか。挙げていけばキリがない。小さな違和感は積もり積もって不信感へと化ける。化けようとしている。……しかし、彼は船員達のことが好きだった。この目で決定的な何かを知ってしまえば話は別だが、自身の抱く不信感はまだ憶測の域を出ていない。皆のことを、信じていたい。

前回の朝礼以降姿を見ていない親友が、無事に帰ってくることを祈った。



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《____廃墟にて》


ウェルテルが持ち直した。それだけで、メルトダウンの心は幾分か軽くなっていた。まだ疑念や不信感は拭いきれているはずもないが、一番の心配事が解決したらしいことに多少は気が晴れたようだ。

ウェルテルの、おそらく過去。そのデータが入ったCDが見つかった廃墟地帯を彼は再び訪れていた。何か変化があったかもしれない。……また、一度来た場所ならば、少しは勝手が分かる。

記憶を辿るに、件の建物までは何をしようもない一本道。だった、はずだが。

……明らかに異質な建物がある。二階建て程度の高さはこの通りにおいては頭ひとつ凹んでいた。確かに通りには珍しい高さの建物だが、異質なのはそこではない。

入口に絡みついているはずの蔦が無い。メルトダウンは、例のいっとう高い……靴が並んでいる建物を思い返していた。蔦が無く、中に入れるのは前回と重なるが、この蔦の無くなり方はどうにもおかしい。蔦には千切られたような痕も無ければ塞いでいたであろう蔦の先が地面に散乱していることも無い。ただ、あるべき場所に蔦が無い。元々無かったのだろうか。いや、以前、入れる建物が他に無かったのは間違いない。……蔦が消失した?そもそもこの建物はずっと存在しているのだろうか。

次々と浮かぶ疑問と嫌な想像、さらに、靴のこと、映像のこと。不吉な予感に連鎖して浮かぶ想像などろくなものではない。あえて踏み入れない、それも選択肢のひとつではあるのだろう。……しかし、もし中に重要なものがあったとしたら。

進むことに躊躇いはあるが、それを上回る責任感。彼の完璧主義は恐怖にも勝るらしい。ゆっくりと、足を踏み出した。


二階建てと思われる建物の一階。半分占めるはずの空間には、いくら見回しても階段しか無かった。上へとおびき寄せられているかのようだ。他に道もない。絡みつく蔦のような不気味な赤のカーペットを踏みしめ、階段を上る。

二階。正面には扉。階段はそこで途絶えており、外見の通り二階建てであったらしいことが分かる。扉の他、このフロアにも何も無い。……不気味だ。よほど狭い建物だったようだ。

扉を眺めながら、思考する。

ウェルテルの時もそうだったが、まるで何かがある場所へと案内されているかのようだ。懇切丁寧にもてなされた上、罠に掛けられているかのような。……いや、世界の欠片に船員以外の人間はいないはず。危害を加えられることなど、万に一つもあるはずない。あるはず、ない。

自身に言い聞かせるようにしてメルトダウンは静かに扉に手をかけた。

第四話: テキスト

「……モニター…………」

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第四話: 画像

真っ暗な部屋の中心、ぼんやりと光を発する、モニター。それが三つ、行儀正しく並んでいる。想定通りここに人間はいないらしく、ただモニターだけが佇んでいた。また、光に目を凝らしてみると、それらすべてで映像が流れている。ひとつひとつに目を向けた。

ひとつは、立ち入りはしなかったが以前目にした樹花地帯。先端に輪を形作る麻縄が、千切れて花弁の山の上に落ちている。花弁が風に舞っているため、メルトダウンは静止画ではなく映像であると結論づけた。

ひとつは、廃墟地帯。見覚えのある光景だ。揃えられた無数の靴が、並んでいる。

ひとつは、……どこだろうか。立ち並ぶこれは、瓶?視点が低い。地面から直接映像を撮った、あるいは今、撮っているのだろうか。映像は立ち並ぶ瓶に覆い尽くされており、周囲を把握することは難しいだろう。


メルトダウンはモニターを、映像を見る。これは過去の映像なのだろうか、それとも今この瞬間なのだろうか。

眉間に皺を寄せながらじっくりと映像を見つめる。何か手がかりはないものか。

「…………えっ」

____映像に、人影。

一瞬、確かに人影が映りこんだ。その直後映像は乱れ、モニターは暗転した。ほんの一瞬。誰であるのか判別するにはあまりにも短い時間で、しかし誰かが映像の先にいる……または、いたことを実感するには十分の時間。

……人。船員、だろうか。ならばこの映像はこの世界の欠片のものだが、瓶が立ち並ぶ場所などメルトダウンには見当がつかなかった。

そもそもどうしてこんなところにモニターがあるのか。……ここで誰かに、監視されている?誰か他の人間が、見知らぬ人間がいる?

そう考えた途端、全身が粟立った。

とても前向きに捉えられるような事実ではない。全く得体の知れない何かの存在を感じ取り、純粋に恐怖と不安を覚えた。

自分に怖いものなんて無いと思ってたのに。ああでも暗いのは何か不愉快だけど。そんなどうでもいいことを考えて、どうにか気を紛らわせようとする。……紛らわせられるか、こんなもの。


「これは、誰に報告、した、ら……なんて、今は報告どころじゃない…のか」

目を伏せて呟く。

メルトダウンは、自身の置かれた現状に困惑していた。敬愛する船長、その潔白を晴らすために乗り込んだシアターで見たのは惨状だった。それなのに、それを知っているのに、朝礼でウェルテルのことを誤魔化して変わらず微笑んでいた。……不信感を覚えない方が、おかしい。

____俺、どうしたらいいのかな。

不信感を抱きつつも、彼は変わらず船長についていくつもりでいる。だが、手放しで信用することはもう出来ないだろう。

どんな顔で、どんな風に話せばいいのだろうか。シアターの一件で船長を明らかに疑っている船員達もいる。……対立することになるのだろうか。そうなってしまえば組織は崩れてしまう。組織の瓦解は、非常に早い。

メルトダウンは、船長をトップに据えて絶妙なバランスで成り立っているアハルディア47が壊れてしまうのを恐れていた。そのために完璧を保ち、完璧を保つことで組織を守りたいと考えていた。……しかしそれは、既に為す術もないまま失敗に終わったのだろう。ウェルテルに続き、ハイルとシンシアまで姿を消していた。他の船員を見るに、おそらく。

沈鬱でやりきれない思いが込み上げる。

無力であることが、これほどまでに堪えるとは。拳を握り締める。

いつまでもここにいたって仕方がない。合理的な判断の元、メルトダウンは未だ映像を流し続ける二台と、不良品と化したであろう一台に背を向け部屋を後にした。



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《____湖水にて》


トロイは以前も湖水を訪れていた。船から程よい距離の湖水は、彼岸の青に当てられてなのか背筋を襲う奇妙な寒気にさえ目を瞑ればただの美しい湖畔である。行って綺麗な景色を見てぼんやりして帰る。それで終業。トロイとしては願ったり叶ったりの好条件、彼女は案外この生活を堪能していた。今回も同様に、そうして一人で探索……とも言えるのか怪しいが、探索に出た。……そのはずだったのだが。


「トロイ、デートだね」

……隣を歩く上機嫌な男。今にも鼻歌を歌い出しそうなほど機嫌がいい。トロイは想定外に、鮫と連れ立って歩いていた。

聞けば鮫も彼岸の探索に向かう道中だったらしく、彼は一人のんびり歩くトロイを見かけて駆け寄ってきて、知らぬ間に一緒に向かうことになっていた。

「デート、って何浮かれてるんスか」

これは業務っスよ。普段自身が指摘されるような台詞を思わず口にする。これほどつっけんどんにするつもりはないのだが、口をついて出るのは悪態ばかり。我ながら、可愛くない。

「いいじゃん。最近あんまり二人で会えてなかったしさ」

トロイの態度をまるで意に介さず彼は変わらず上機嫌だ。鮫といると、トロイは調子が狂うらしい。

二人は今、隣を歩いている。つまり歩調が合っている。

高身長な鮫と、仮にも身長が高いとは言い難いトロイでは当然歩幅に差があるはずだ。……何も言わずに、鮫はトロイに合わせてゆっくりと歩いていた。恐らく無意識にそうしている。……本当に、この人は。


トロイはおもむろに辺りを見回し、……恐る恐る、鮫の手に触れた。

ぱっと表情を華やがせ、鮫は答えるようにその小さな手を握り返す。

俯き横を向くトロイの顔は見えないが、その耳がほんのり色づいていることに、鮫は満足したように笑った。


過ぎる時間を慈しむように歩みを進める。知らぬ間に、湖水に辿り着いた。ぱっと手を離したトロイは何かに気がついたらしい。鮫を呼び、それを指さした。


「……あれ、ワタシが来た時は普通に立ってたんスよね」

指の先、青い鳥居が倒れている。ドミノ倒しのように、連なっていたそれらは重なり合って倒れている。

第四話: テキスト

……多少の危険を冒せば、その奥に薄らと見える、祠のある小島に渡ることが出来そうだ。

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第四話: 画像

▼行動を選択してください。

①鳥居を渡る

②引き返す

⇒①


これは業務だと、先程トロイは言い放ってしまった。明らかな異変を前に、見て見ぬふりをする訳にもいかない。

「渡って、みます?」

「俺様は余裕だけど〜……トロイ危なくない?」

「ハァ〜?余裕なんスけど。ワタシこういうの得意なんスよ、お見せしましょうか」

「なら一緒に行こっかな」

軽い身のこなしでトロイは鳥居を渡っていく。安定した体幹と高いバランス感覚、トロイが運動を得意としているのは本当のようだ。その後ろを鮫が続く。鳥居のつくりはかなりしっかりしているようで、渡っている間に折れてしまうようなことは無さそうだ。

鳥居を次々と渡り、二人は危なげなく小島に到着した。初めて訪れた、祠。ひとまず周辺を観察する。


小島は、祠への供え物だろうか、所謂神酒で埋め尽くされている。足の踏み場もないほど立てられた神酒の合間を縫って、何とか祠に辿り着いた。

明らかに劣化が見られる、木製の小さな祠。祠を形作る木材は一部が削げ落ちており、今にも崩れてしまいそうだ。

また、祠には観音開きの扉があり、その扉のみに新しい板材が用いられている。まるで、扉だけがついさっき取り替えられたかのような外観。


「これ、開きそうじゃん」

「ちょっ、……」

何が祀られているのか、検討もつかないその扉に躊躇なく手をかけた鮫に、トロイは驚いて制止を試みるものの、声を上げた時には扉は無常にも開いていた。

トロイの心配は杞憂に終わり、何かが飛び出してくる訳でも突然呪われる訳でもなかった。開いたその中を覗くと、周囲と同じく無数の神酒が供えられている。

……だが、やはり、おかしい。

……奥が見えない。

どこまでも、どこまでも、外にあるものと同じ神酒が並び続けているように見える。外から見れば、奥行きも横幅も、トロイが両腕を伸ばした時よりも短いのに。


「……なんか、気持ち悪いっスね。」

「俺様がいるから大丈夫だよ」

「そういう話じゃないんスよね〜」

ふと、何かに足がぶつかる。足元の神酒を倒してしまったらしい。

鮫はそれを拾い上げ、貼り付けられたラベルに目を向けた。


「……ビール?これ。」

どうやら、この瓶の中身はビールらしい。……神酒としては、微塵も相応しくない。そう思って他の瓶にも目をやると、どれもまるで似つかわしくないものばかりだ。

「ハ、こんなとこにビール?不思議っスね。……飲み物なら飲めるんじゃないスか?」

そう言って、トロイは栓に手をかけた。幸か不幸か、この栓は素手で抜けるようだ。

「トロイ!?」

「ホントに飲む訳ないでしょ。ちょっと覗いてみるだけっスよ」

……栓を抜いた途端、ひどい悪臭に襲われる。錆びた鉄と、腐った肉の臭いが、混じったような。ラベルではビールと記されていたそれは、本当にビールなのだろうか。瓶には色がついているため、ラベル通りにビールなのかどうかを外見から判断することは出来ない。これは、何なのだろうか。臭いから判別すればただのビールではないことは明らかだ。

「………………。」

そっと瓶に栓をして、トロイは足元の瓶たちに得体の知れないそれを紛れ込ませた。自分は何も見ていないと、言い聞かせる。下手なことするんじゃなかった。


「祠、とは言え何かを祀ってるようには見えないっスね。酒ばっか。」

「祠の中にも何も無かったもんね」

何事も無かったかのように話を変え、二人は瓶から目を逸らす。

ふと、視界の端で「何か」が光った。光を捉えた方へと足を運ぶ。


「この瓶だけ割れてますね。変なの。……あとは、なんスかね、カメラ?」

トロイの足元、転がっているのはこの小島で唯一半分に割れた酒瓶。それと、原型を留めていないほどに破壊されたカメラだ。

「げぇ、そんなんエスでも直せないじゃん。誰だよこんなことしたの……てかここ、何のためにカメラなんてあるのかな」

「……ワケわかんないことばっかっスね、ホント」

その他には、何も無い。


これ以上、収穫はないだろう。

再び鳥居を渡ると、最後に祠を一瞥して二人はその場を去った。

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《____シンシアの個室にて》


受け止め難い映像を見て、宛のない怒りに苛まれ、衝動のまま走り出そうとした。走り出そうとして、動けなかった。

____ハイルは、それを望んでる?

船長に突きつけられた言葉は深く刺さって杭となり、シンシアの行動を制していた。本当に、自分は正しいのだろうか。少し揺さぶられただけで疑ってしまうような、それは自分が正義だと信じきれていないことを表しているのだろう。シンシアは一度個室に戻り、頭を冷やすことにした。

ひとり、考える。

どうして、あの時傍にいられなかったのか。もしいられたとしても、自分にハイルを止めることが出来たのだろうか。どんな言葉をかけたとしても、自分は部外者でしかない。そんな人間に、出来ることがあるのだろうか。辛いときには支えようと、いつでも駆けつけて拠り所になろうと、そんな風に思っていた。思っていた、のに。

思考は堂々巡り。行き着く先もなく、シンシアはただ自身の不甲斐なさを痛感してまだ爪の跡が残る拳を再度握りしめた。

……考えていても答えは出ない。うるさい、彼女がそれを望んでいるかどうかなんて、俺に分かりはしないんだ。

今までで最も長い、眠れない夜。始業など待っていられない。

シンシアは立ち上がり、船を降りていった。ハイルを探して、彼は思い当たる場所へ走る。


見通しの良い田園に、自身以外の人影はない。

暗い廃墟が作り上げる一本道、そこにも彼女はいなかった。

攫われてしまうのではないかと思わせるような青の花畑にも、彼女の姿は認められない。

黒く、そして赤く鬱蒼とした森には、映像で見た縄が無数に垂れ下がっている。……ここにも、恋しい少女はいなかった。今にも消えてしまいそうだったハイルが、母と同じ道を辿っていないことに少しだけ安堵する。


……一体、どこにいるのだろうか。

息を切らせて、滴り落ちる汗を拭い、走る。

いない。ここにも、いない。いない。いない。

いない。

……いない。

強くなっていく焦りとは反対に体力は削られ、ついにシンシアはその足を止めた。

「……ハルちゃん…何処にいるんすか……。」

顔を歪め、俯いた。

今も、あの子は独りで泣いているかもしれない。何度手を振り払われたって構わない、それでも傍にいたい。願わくばその苦しみを吐き出せる、彼女の居場所になりたい。早く、早く、……早く会いたい。


……もしかしたら、もう船に戻っているのかもしれない。そうであってほしい。

シンシアは船に戻ることにした。



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《____2F廊下にて》


「……ハイル!」

観測船、二階廊下。管制室から出てきたエマは、俯いてそこに立つハイルを見た。

泣きながらシアターを飛び出していったハイルを思い返し、船に戻ってきていたことに胸を撫で下ろす。

エマは、ハイルに対して守るだ何だと言っておいて何も出来なかったことをひどく悔やんでいた。きっと、ハイルは知られたくなかったんだろう。エマは知ってしまったが、それでもハイルの親友であることに変わりはない。ゆっくりでいい、話したくないのならそれでいい。もし辛くなれば弱音を吐けるような、そんな相手になれればいい。エマは、ハイルも桜本入も受け入れたいと思っている。

何故こんなところに立っているのか、今までどこに行っていたのか、聞きたいことは山ほどあるが、今はただ彼女を抱きしめたい。

エマはハイルに駆け寄った。


……?

何か、おかしい。いつもと違う。両手に、何かを持っている。


「エマ」


喉が詰まる。何かを、押し付けられた。


「……エマ、私、」


ほんの少し、痛ましく口角を上げ、歪な笑みをつくるハイル。笑みを浮かべるのは、現実逃避だろうか。


「エマのこと、もう、許せないかもしれない。」


それだけ告げて、目を伏せた彼女は片手のそれを大事そうに抱えて階段を降りていった。

____床が音を立てる。見れば、花が散っていた。エマは、ゆるゆると自身の右耳に手を添えた。指先に確かな感触を覚え、それが対になっていた片割れなのだと理解する。

体中が冷え切っている。何も分からない、一体、どうして、なんで。

浅い呼吸。上手く、息を吸えない。


……渡された、これは?

第四話: テキスト

……四角い黒い箱に、テープ?が入ったような形状。かなり古い映像機器のようだ。

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第四話: 画像

【ビデオテープを入手しました。】



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《____1F廊下にて》


酷いことを言った。友情の証を、床に捨てた。

それは分かっている、分かっていて、どこにもぶつけようのないこの思いをその行為に詰めた。私は、いつまで裏切られ続けるんだろう。

ぴたりと、廊下で立ち止まる。

考えがまとまらない。気持ちに整理がつかない。どうすればいいのだろうか。


____ハイルは、昨日の自身の行動を思い返していた。

彼女は船を降りたのち、しばらくどこに向かっているのかも分からないままに走り続けていた。体を動かしていれば、考える余裕もない。考えなくていい。本能的な逃避行動だった。

いつまでもそうしている訳にもいかず、疲れ果てたハイルは足を止めてその場に座り込んだ。青い彼岸花は、記憶を取り戻した今改めて見るとより一層不気味に見える。そうして座ってぼんやり彼岸花を眺めてみれば、知らぬ間に呼吸は落ち着いていた。そこで、一度は感情の整理がついたのだ。

酷いことを言ってしまったと、皆に謝らなければならないと、でも知られてしまっているから誰にも会いたくないと、そう考えた。居場所もないのだろうと、楽になりたいと自嘲して膝に顔を埋めた。そんな勇気、あるはずないのに。


ふと、視線の先。目に入ったのは、真っ青な鳥居が連なって倒れている光景。彼岸花と同様、赤いはずの鳥居が青く染まっているのには、妙な嫌悪を覚えた。しかし体は引き寄せられるようにして鳥居の方へ向かう。その奥に、祠があるのが見える。これを渡っていけば、祠に辿りつくのだろう。

……今更、どうなったって構わない。もしも落ちてしまって、湖で溺れたりなんかしたって、別にいい。

一人になれる場所を求めて、ハイルは鳥居を渡った。


その先で彼女はエマに渡したビデオテープを拾ったのだ。幼い頃使った覚えはあるが、まったく馴染みはないそれ。もしかしたら、自分と同じところから来た人がいるのかもしれない。訳の分からない環境に同じように置かれている人がいるのかもしれない。分かち合えるかもしれない。ハイルは、少しだけ希望を見た。

ビデオテープともうひとつ、拾った物がある。今ハイルが片手に抱えているのは、そこで拾った物だ。……死にたいから、持ち帰ってきた、鈍く輝く包丁。新品ではないのだろう、刃先がかなり丸くなっている。

また、ビデオテープの落ちていた場所にはそれらの他に半分に割れた酒瓶と、……カメラがあった。カメラを見つけた途端、思い出されるのは家に押し寄せてきた報道陣。嫌というほど向けられたあの時のものと同型だ。こちらを覗かれているような、そんな感覚に襲われる。

……次に気がついた時にはハイルは肩で息をしていて、目の前には手酷く破壊されたカメラが転がっていた。


見知ったものを見知らぬ世界で手に入れた。それだけで彼女は安心していた。だから、その中身がどんなものであるのか、想像していなかった。一睡も出来ておらず、精神的にもかなり疲弊しているハイルの判断が鈍るのも、無理はないだろう。

誰がこれの持ち主なのか。誰が自分と同じ、仲間なのか。それを知りたくて、ハイルは再びシアターに立ち入ってしまった。


____そして今に至る。

廊下で立ち止まっていたハイルはその場にしゃがみこんで、大きく深呼吸をした。心臓が痛い。目眩がする。受け止めきれない事実に、とっくに枯れたと思っていた涙が零れた。


「……ハ、ルちゃん!?」

突然の声に、思わず振り向く。ハイルが最も顔を合わせたくなかった相手。シンシアが、そこにいた。息を飲む。


「良かった、……ハルちゃん、無事で……」

心からの言葉。彼は、"ハイル"を心配していた。あれを見てもまだ、私をハルちゃんと呼んで、変わらず接してくれている?ハイルの瞳が揺れる。

そんなわけない、みんな、これまでみんなそうだった。

近寄らないで。来ないで、踏み込まないで。

片手に持っていた包丁を握り直し、自分に向ける。その手は震えている。怖い、痛いのは怖いけれど、彼に裏切られるのはもっと怖い。そんなものを見るのなら、いっそ。

「こないで、嫌、ごめんなさい……」

シンシアが目を見開いた。

自分に怯えるハイルを見て、彼は何を思うのだろう。

駆け出したシンシアに、迷いはない。

ハイルを泣かせているのは、ここまで追い詰めているのは自分なのだろうか。それとも、自分を通して見ている幻に今も囚われているのだろうか。

シンシアは一気に距離を詰めると、ハイルの持つ包丁に怯むことなくそれを抜き取った。力の入っていない両手で握られる包丁はシンシアによっていとも容易く奪われる。包丁を手放したことを確認したシンシアは、そのままハイルの手を取って、濡れた瞳を見つめた。目が合う。


「俺は、俺ですし、ハルちゃんもハルちゃんです。……それ以外の何でもない。君が独りで泣いてると思うと、……俺は、悲しいっすね。」


ハイルは自分が傍にいることを望まないかもしれない。

それでも、シンシアは傍にいようと決意した。


「何回だって振り払ってください。何回だって、手を取ります。」


シンシアは笑う。いつも通りに、ハイルに笑顔を見せる。


「俺、しつこいんすよね」


その言葉に、ハイルは眉間に皺を寄せて泣きそうに顔を歪める。

私、全然、シンシアのこと見てなかった。自分勝手だった。

自責にかられて、また、直前に自分が衝動的に親友に与えた仕打ちを後悔して、ハイルは再び手を離し個室へ駆けていった。


手は離れてしまったが、思いは伝わっている。今、ハイルは混乱しているだけだ。時間をかけて、ゆっくりと考えられたとすれば、きっと。

ハイルはまだ受け止めきれていない。それほど彼女の抱える現実は重く辛い。しかし、それでもハイルは逃げ場を知った。シンシアの手が、その腕の中が、ハイルの逃げ場なのだろう。

今はまだ難しくても、のんびり慣れていけばいい。何度だってその手を取ろう。

彼の顔に、以前振り払われた時のような悲愴感は見られなかった。

ハイルの個室に目を向ける。


____長期戦、望むところっすね。



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《____2F廊下にて》


去っていったハイルと対照的に、エマはその場に立ち尽くしていた。

……ハイルに、嫌われた?支えられなかったからだろうか。不可抗力とはいえ、共に映像を見たからだろうか。いや、ハイルはそんな性格ではない。

と、すれば、やはり渡されたこれ。エマは手元の黒い箱を見る。

ハイルの口振りからして、おそらく、これはエマのものだ。……自分の知らない自分が、この中にいるのだろうか。それが原因で、ハイルに嫌われてしまったのだろうか。……一体、過去の自分は、何をしてしまったのか。

見るべきではない、辛い思いをするのだろうということは分かる。だが、このままにしていては、ハイルと仲直り出来る日など、永遠に来ないのではないだろうか。原因を知った上で、お互い乗り越えなければならないのではないだろうか。

……ハイルと親友でいたい。

大切そうにハイルのピアスを拾い、ショートパンツのポケットにしまった。

エマはこれから自身を襲うであろう恐怖に無理やり蓋をして、階段を上る。


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《____シアターにて》


シアターに、その前にも人影は無かった。船長がいるのではないかと、エマは恐る恐る甲板へ上がったがその必要はなかったらしい。そういえば三階で物音がしていた。そこにいるのだろうか。

事情がどうであれ、誰もいないことはエマにとって好都合だった。辺りを見回し、静かにシアターの扉を閉めた。


……本音を言えば、恐ろしい。ハイルにあんな顔をさせてしまうのなら、気分のいい映像ではないだろう。……それでも。


躊躇いながらも、震える指でボタンに触れる。……映像が、始まる。

第四話: テキスト

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____開演____



【××の憂患】


まずい、失敗した。殴られる。倒れ込む。

「お前こんなことも出来ねえのかよ、なぁ!?」

今日は一段と機嫌が悪い日のようだ。卓袱台回りに散乱する瓶と缶を横目に見る。お酒、足りなかったのかな。

……鉄の味。口内が切れ、鼻からも血が垂れている。みっともない。

「誰のおかげで生きてると思ってんだよ。誰の金だ、それ。言ってみろ」

乱雑に髪を掴みあげられ、無理やり目を合わせられる。

嫌だな、私とそっくりだ。

第四話: テキスト

「……お父さんです。」

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第四話: 画像

「本当に分かってんのか?誠意がねえな、誠意が」

「いつも、ありがとうございます」

痛みに、恐怖に、悲しみに耐え、滲む視界に父を見る。待てばいい、耐えて待てば、それで大丈夫。優しい父なのだ。本当は優しい人なんだ。酔いが覚めたら、いつも謝ってくれる。

「はは、適当に合わせとけばいいと思ってんだろ。【絵真】、お前、やっぱクズだな」

殴られる。


私には理想の家族がある。

お父さんと、お母さん、それと沢山のきょうだいがいるあたたかい家族。お互いがお互いのことを想って、毎日賑やかで、笑顔の絶えない家族。

残念ながら理想は理想、私には父はいたって母はいない。きょうだいだって一人もいない。笑顔なんて、この家にあるはずもない。……昔は、親子三人、仲良く暮らしていたのにな。

崩壊の引き金を引いたのは母。彼女の、不倫。

母とは言えども、ただの薄汚い女だった。あの姿は嘘っぱちだった。

父が、お酒を飲んで、泣きながらそんな風に語っていたのをよく覚えている。そこから彼はおかしくなってしまった。……母が戻ってきたなら、きっと、父も元に戻る。また家族になれる。そんな一縷の望みにかけるしかない人生。私の、【橋本 絵真】の世界は狭かった。家族がすべてで、それなのに家族に恵まれていなかった。


家事が私の仕事だ。炊事、掃除、洗濯、その他諸々。文字通り、家の事は全部。父が仕事に出て帰るまでに全てを終わらせなければならない。早く片付けなければ殴られる。……いつまで経っても痛みには慣れない。慣れてしまえば死んでしまうと、そう思って息をする。私は生きていたい。


家族は家族だ。何があったって切れない絆がある。情がある。愛がある。だから私を思いやって謝ってくれるんだって、いくらなんでもその一線を越えることはないって、信じてたんだ。


ひどい雨の日だった。

トタンの屋根を甲高く鳴らす雫と、雨樋を駆け抜ける濁流はありとあらゆる外界の音を搔き消していて、それは家の中の音が外に聞こえていないのと同義だった。

第四話: テキスト

尋常でない圧をかけられる喉から絞り出される微かな呻き声なんて、そんなもので助けを乞うたって、誰に届くはずもない。

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第四話: 画像

今、私は父に殺されようとしている。苦しい。家族なのに、私はあなたの娘なのに、家族、家族って、こんなものだっけ。痛い。目の前が点滅している。お父さん。お父さん?脳に酸素が届いていない。呼吸の仕方が分からない。苦しい。痛い。このままでは本当に。

アルコールに起因する頭痛か何かに気を取られ、父の手が一瞬緩んだ。火事場の馬鹿力とは本当にあるらしく、その一瞬でほとんど反射的に思い切り突き飛ばせば彼の手は案外呆気なく首から外れた。突然肺に送り込まれる空気に、思わず嘔吐く。頬を濡らすこれは、きっと生理的な涙だろう。……あれ、でも、とまんないや。


……?

突き飛ばした父の方から、音がしない。反抗なんてしたらその途端に爆発したように怒鳴りつけてくるはずなのに。

雨の音が煩い。


「お、お父さん……?」

恐る恐る近づく。……血。向かいにあった家具に、頭を強く打ち付けたらしく、その角は赤く塗られている。……意識を失っている?


「え、……き、救急車、救急車呼ばないと」

台所に続く廊下、そこに備え付けてある固定電話へ。倒れるように、転がるようにして走っていく。119だっけ、救急車って、呼んだことない、お父さん、死んじゃうの?

受話器を取る。震える指を叱咤して、番号を押す。1、1……。ふと、手が止まる。


死。死ぬ。私、さっき。

私に跨り大きな両手で首を絞めていた父の顔が瞼の裏に焼き付いて離れない。もし、突き飛ばせていなかったら。もし、父の手が離れていなければ。


あそこに転がっていたのは私だった。


どっと汗が吹きでる。体が震える。あと一歩で現実になろうとしていた人生の終わりに、自身の死に、恐怖した。

もし、次があったとしたら。

____死にたくない、死にたくない!!


居間の奥、力なく仰向けになっている父が目覚める気配はない。息はあるらしく、小さく胸が上下している。今すぐ救急車を呼べば、助かる。床を這う赤は、際限なくカーペットを染めていく。雨の音が煩い。心臓が煩い。


受話器を下ろし、ゆらりと立ち上がる。足元が覚束無い。なんだか、ふわふわしている。台所へ向かう。……使い慣れたそれを手に取る。手に力が入らない。心臓が煩い。息が荒くなる。居間に入る。父が倒れている。跨る。振り上げる。

第四話: テキスト
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第四話: 画像

案外簡単に、吸い込まれていくものだな。

まだ、起き上がってくるかもしれない。殺されるかもしれない。傷口からとめどなく溢れるそれを眺めながら、再び振り上げた。振り上げた。振り上げた。振り上げた。振り上げた。振り上げた。振り上げた。振り上げた。振り上げた。振り上げた。振り上げた。振り上げた。振り上げた。


ふと、痛みが走る。裸足でいたから、卓袱台から落ちて割れてしまった酒瓶の破片が刺さったのだろう。半分に割れた酒瓶が転がっている。

父を見る。似ている顔、家族の証。意識はなくとも、こちらを責めているかのような、瞳。……酒瓶を手に取る。

振り上げた。

振り上げた。

振り上げた。振り上げた。振り上げた。

振り上げた。

振り上げた。振り上げた。

第四話: テキスト

​振り上げた。

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第四話: 画像

無我夢中で、ひたすら殴り続けた。刺し続けた。

いつの間にか動かなくなっていた、血に沈む自分の下の何かをぼんやり見下ろした。


雨の音が煩い。



【橋本絵真の憂患】




____終演____




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………………。


これは、…………私、私だ。

目の前で繰り広げられた、覚えのある過去。たった今、思い出した過去。当時の生々しい感覚が蘇り、両手が血に塗れているように錯覚する。


「……ふ、ぅ、ぐぅ…………」


溢れ出る涙を止める術はなく、エマは蹲って咽び泣く。

シアターには彼女しかおらず、声を殺す必要は無いのだが……生きるために、いつしか染み付いた癖なのだろう。エマは、大声を出せば父親に殴られていた。


自分は、保身のために人を殺した。救えた命を、家族を見捨て、あろうことか自らの手でとどめを刺した。これを、こんな事実を、消化できるだろうか。やらなければ殺されていた、だから自分は正しいのだと信じたい。それでも、冷静に考えてみれば本当に二度目はあったのだろうか。あそこで父を助けていれば、父も思い直したかもしれなかった。そんな未来があったかもしれなかった。


エマのことを知ったハイルに、殺人犯に人生を狂わされたハイルに、合わせる顔などあるはずない。

……嫌われて当然だ。


この手で人を殺しているという紛れもない事実。橋本絵真はそういう人間なのだと、突きつけられた現実はあまりに鋭いもので、彼女の心臓を容赦なく切りつけた。

橋本絵真の理想の家族は、アハルディア47にあった。彼女は、こんな暮らしを夢見ていた。過去を思い出した今、これまでと同じように皆と接することなど出来ない。……理想は、やはり理想のままだ。私に、橋本絵真に、あたたかい家族だなんて、身の丈に合わない幻想だった。


ここで生きていくのなら仕事をこなさないと。役に立たないと。そうでなければ私みたいな人間が居ていいわけがない。

そんな考えとは裏腹に、体は動かない。立ち上がることもシアターを去ることも出来ない。

与えられたショックに無意識に蓋をしたのか、エマは本人が思っているよりも精神を病んでいた。存在意義を主張しなければ追い出されてしまう。ここにいてはならない。……そんな彼女の考えを、否定出来る者はここにはいない。シアターにいるのはエマひとり。際限なく沈む思考から彼女を引っ張りあげられる、そんな存在はいなかった。

ハイルの映像を見るというエマの過去の選択が、父親を殺すという橋本絵真の過去の選択が、唯一彼女を救えただろう親友を殺してしまった。

____なんだ、全部自業自得じゃないか。

未だ、体は動かない。


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第四話: テキスト
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