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​​第十五話

第十五話: ⑨

「一日の時間と生活習慣と……KANSASに基準を合わせよう。前帰った時大変だったからなあ、同じと思って食事も睡眠も忘れると医務室で起きる……空腹なんかで行くべきじゃないんだよ医務室は」
「……独り言増えたな」

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《____探索の道中にて》

PA■┷H▊RA-L▊*44には、月さえ浮かばぬ夜がある。いかなる光も意味を成さない、そんな夜。
夜はやはり定刻通りに訪れるようで、探索も時刻に十分注意を払えば問題ないだろうと判断が下された。偶然たまたま船内におけるものと欠片の時間、その進み方がまったく同じであったのは幸いだった。チョーカーで確認出来る時刻が基準だ。これまで以上に、終業時間には気を配らねばならない。
また、この休暇を通じて分かったことがもうひとつ。たとえ欠片が夜を迎えても、船内が本物の夜に覆われることは無かったのだ。つまり、欠片の構成要素ではない異物ならば光を奪われることはなく、欠片が眠りについたとしても、船から持ち出した灯りとなる何かがあれば足元くらいは照らせる、ということらしい。船員みなが有している最も手軽な灯りは、チョーカーを操作することで浮かび上がるウィンドウだ。常に照明により一定の明るさを保証されている船内に、使用可能かつ人数分の懐中電灯なんかは無く、頼ることができるのはそれが唯一だった。

とはいえ光が届く範囲を超えてしまえば一面が絵の具を塗りたくったような真っ暗闇で、そんな中を、本来周囲を照らす役割を持たないウィンドウのぼんやりとした光を頼りに、安全に移動するのは難しい。さらに言えば、夜の欠片に昼以降何の変化も起きていないとは断言できず、ウィンドウの灯りとしての使用は最終手段と見るのが良いだろう。やはり、終業時刻までに確実に帰船することが何よりも先決であるようだ。

以上がこの欠片についての船長の見解で、個人的に欠片の特徴について観察していた船員も同意見らしい。異論を唱える者はいなかった。

朝礼を終えればほかの欠片と同様、探索が始まる。船員は次々船を降りていき、ウェルテルもまたそれに続いた。万が一夜を迎えてしまったときに孤立するのは危険であるとして、探索は複数人で行うようにとも指示されている。にもかかわらず、人を避けるようにひとり奥に向かおうとする後ろ姿が遠くに見えて、ウェルテルは慌てて声をかけた。

「ルーク!!単独行動ダメってせんちょー言ってたじゃんか!」
「……6番」
「そろそろ名前で呼ばん?ほらせーの、ウェルテル〜!……いや待ってってばごめんごめん!」

快活に笑いながら、今にも立ち去らんとするルークに駆け寄り、共に歩く。誰かと行動を共にすることにどこか抵抗があるらしい彼だったが、抗議するでもなく黙って現状を受け入れていた。指示もあったうえであえて単独行動を貫くのは得策ではない。それに、与えられた指示に応えられる状況になったというのにあえて逆らうなど、今のルークにはどうしたって出来なかった。
ウェルテルはそんなルークの様子を特に気にすることもなく、彼の知らぬ間にペスジアを誘い、三人で探索することを決めていた。

「よかったです、少しぼんやりしてたらみんないなくなっちゃってたので……ウェルテルちゃん、ありがとうございます」
「いーえ!ペスとルークと三人、ってなんか珍しくてたのしーね!いざ探索〜」

臆せず進むウェルテルを先頭に、三人は歩き出した。

第十五話: テキスト

三人が歩くのは、船を泊めた辺りから誂えたように伸びる一本道。

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第十五話: 画像

小石が除かれ平らに整備されており、タイルや石畳こそ敷かれていない地面であるものの通行に難はないようだ。その道の上には、多数の足跡や一定の幅を保った二本の線が刻み込まれている。

「なんだろ、タイヤの痕みたいな?」
「ここは欠片ですから、人がいる…なんてことはないでしょうし……きっと、壊れてしまう前の名残ですね。沢山の人が通った、栄えた道だったのでしょうか」
「あーたしかに!それにしちゃ周りめっちゃ木でウケんね」
『何かあるなら道から逸れた森の中かもな』

誘導されるままエンペラーの指す先へ視線を移し、道の周囲……A-1、A-2と名のついた区域を見渡す。この道から見える範囲では木々が茂るばかりで、迷い込んでしまえば正しく帰路につくにも骨が折れることは容易に想像がついた。きっと、無闇に立ち入るべきではない。

この道はマップからの印象に反し、思いのほか長い。ならば同じく、欠片も広いのだろう。単純なつくりであるが広い、とは、代わり映えしない景色が続くことを意味しており、退屈な道中では口数も増えるというものだ。二人は他愛もない話を続け、度々ルークを振り返る。彼もまた、声を発することはなくとも尋ねられれば頷いたり首を振ったりして、そうして会話が続く。穏やかに時は進んでいった。

不意に、言葉が途切れる。ふぅ、と一息ついて、ウェルテルが口を開いた。

「最初はさ、こうやって欠片に出て……部品探してたけど、今アタシらって何探してんだろね。や、部品なんだけどさ!どっちかっていうと、アタシ今部品よりディスク探す方が大事だと思うわけ」

からりとした口調。でもどこか、緊張している。

「ディスクの内容って……ハハ、思い出すとちょっと、正直今でも吐きそうになるけどさ、……でも、あれもあって、やっとほんとのアタシなんだよね。あれもみーんな引っ括めてのウェルテルで、そのアタシが、何を間違えちゃったかの経験を踏まえてこれからどうするかが大事、みたいな?……アタシならたぶん、一人だったのがダメだったから、今みんながいるなら限界になったとき今度は一人にならずにみんなを頼れば大丈夫!みたいな。えっとね、あれがなければアタシじゃない…とまでは言わないけど、覚えてないまま生きてたときのこと思うと……なんかすっごい気持ち悪い、し、傷つけちゃった人たちに対して無責任だった。」

ウェルテルが、ディスクの内容について話題にあげると、ルークの眉がピクリと動いた。
彼もまた、かつての自分を覚えている。
自分らしく生きたい、そう願って叶わず、折れた自分を知っている。
そんな過去の自分と、船員として生きたって一人では何もしようとしなかった今の自分とを比較して、変わりないことを恥じていた。人は変われないのだと嘆いていた。それではいけないと思ったけれど、何からしていいものかやっぱりわからなくて、でもどうせ自分は変われないから、ひとまず人に指示を求めたりなんてしないようにと一人になった。けれど、そうして、「それではいけない」なんて思えたのは、あの忌まわしい過去が、ディスクがきっかけだった。

そもそも、「人は変わらない」とは、失敗を経験し省みて、意識して自身を変えようとしたが、本質は同じで結局その人は変われない、そいつはどうしようもない人間だった、そんなことを意味している。しかし、ルークのように失敗の記憶を失くしていたとしたらどうだろうか。根付いた常識や習慣は変わらないことの方が多いのだから、同じような失敗にも陥るのが当たり前だ、と考えることも出来るのではないだろうか。
船という新しい環境に身を置いたって、自分は変わらなかった。同じ過ちを繰り返していた。当然だ、自分を変えようと努力するきっかけがないのだから、根付いた意識に囚われる。身体が、精神の核が、覚えてるように生活する。
そうだとしたら。それならば。船に乗ったって父がいなくたって一人では動こうとしなかった"ルーク"は、そうなるべくして生まれてしまった、と、言えるのではないだろうか。
失敗を知った今、このままではならないと気がつくことができた今は、これまでとは明らかに違う。自分を変えようと努力を始めることくらい、出来るんじゃないか。それは、過去を知らず、欠けていた自分では絶対にしなかった努力だった。ディスクを見たからこそ、得られた成長のきっかけだった。過酷な境遇を、重ねてきた凄惨な行為を、生々しい感触をもって思い出すことは拷問に等しい。けれど、それが自分だった。ディスクを見ることで得たのは、自分と、自分を変える機会だった。

……足元しか見えていなかった、ひどく狭いこの視界が、霞がかっていた視界が、さあっと開けたような気がした。
煤けていた自分の心が、わずかな輝きを放った気がした。

知らず知らず、ルークに小さな希望を与えたウェルテルは、どう言えば伝わるのか、自分の考えをまとめようと唸っている。
ペスジアはじっと口を噤み、ウェルテルの言葉を待っていた。ゆっくりでいい、まとまるまで待つから大丈夫だ、と、その表情で告げていた。

「たぶんそれはみんなも一緒で……どれだけ捨てたくたって、ディスクは自分で持っとくべきなのかなあって。見るか見ないかは自分で決めていいけど、思い出すことをいつでも選べるように、本人が持っておくべきだと思う。そんな、思い出さなきゃおかしい!とか極端なこと言ってるつもりじゃないから!だってめちゃくちゃ辛いしさ〜でも向き合わなきゃだしさ〜いやそりゃ向き合わない方がいいのもあるんだろうけどさ〜……うーん、なんて言えばいいんだぁー……」

ディスクを見るのは人によっては悪いことばかりではない。選択の機会くらいは平等に与えられるべきだ。だから、ディスクは積極的に探した方がいいのかもしれない。そんなことを、たどたどしく伝えている。後方で少し目を見開いてウェルテルを見つめるルークに、気がつく余裕はないようだ。

今、ディスクを見ていない船員は、変わる機会を一様に奪われている。せっかく自分を取り巻いていた社会や人間関係のすべてがリセットされた地にいるのに、しがらみのすべてを放棄してしまえる場所にいるのに、望んだ自分になる機会を奪われている。

「だってさあ、何があったか、どんな失敗をしたか〜って土台があってからのこれからどうする!じゃない!?そこ欠けてたら計画だって目標だってズレて歪んじゃうの確定だし……なんか、やるせないっていうか……」

そこまで口にして大きく溜息をつき、ウェルテルは俯いた。
先程、ルークが辿りついた結論と同じ。失敗を経て、これからどうするか、それこそが大切だとウェルテルは話してみせた。ああ、凄いな。とても簡単なことだというのに自分では辿り着けなかった考え方だった。自分一人では、一人きりでは、わからなかった。人の意思に影響されずに自分の力で動けることと、人の意思が恐ろしいからと自ら一人になることは、きっと違うのだ。周りの人を頼ったって、一人じゃなくたって、なりたい自分にはきっとなれる。

第十五話: テキスト


「……僕も、そう思う。……ウェルテル」

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第十五話: 画像

初めて耳にする、自身の名を呼ぶ彼の声に、ウェルテルは勢いよく顔をあげて振り向いた。ペスジアも、レンズの奥の瞳を丸くしてルークを見る。彼の表情は、心做しか柔らかく、晴れている。

「え、ルーク……今、えっ!?嘘ぉ!!?アンコールお願い!せーの!」
「うるさい」
「えええ、だって、ええ!?」

ウェルテルが大袈裟な身振り手振りで動揺を顕にし、ペスジアはウェルテルの声に驚いたのか、さらに目を丸くしている。二人の様がどこかおかしくて、ルークは顔を袖で隠すようにして笑った。


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《____Cにて》

船から真っ直ぐに伸びる道、その突き当たりに差し掛かって立ち止まる。思いのほか広いこの欠片において、Bに行ってからCだとかその逆の順路だとかを辿り、終業時間までに船へと戻ることは恐らく困難だろう。道を外れ、A-1やA-2を突っ切りショートカットを試みる……なんて無茶をすれば可能にもなるだろうが、あまりにリスクが大きかった。まあ、初めてこの欠片へと降り立ったのだから、そう焦る必要はない。ここはとりあえず左へ曲がり、Cの方向へと向かうことにした。

「……こっちSってとこもあるが、どうする?」
「ひとまず寄り道せずにCへ向かおう。Sは通りがけに様子を覗く程度で良い。目的が分散するのは好ましくないな」
「うん、私もリツィに賛成。シャルル、いい?」
「ああ、大丈夫だ。なんだろうなあこの、Cにあるマーク」

肩を並べて歩くのは、シャルル、リツィ、ハイルの三人。A-2とA-4に挟まれた道を抜け、Cを目的地として歩みを進めている。シャルルが口にしたSは、左折してすぐにその姿のごくごく一片を晒していた。建物と建物の間、非常に狭い路地が、Sと呼ばれる区域への入口のようだ。ちらと覗いたところで奥を拝むことは出来ず、Sをまともに探索するならばこの路地を進む必要があるのだろう。先程目的を共有した三人は、ここは今来るべきでないと判断し、Sに背を向けた。

第十五話: テキスト

道に沿って目的地を目指す。どこからか、足元には石畳が敷かれていた。先程の道よりも、草木はいっそう茂っている。

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第十五話: 画像

「A-2……と、A-4?こっち側はずっと木とか草なんだ。Bに向かう方はちょっと違うように見えたけど……次は行ってみたいな」
「向こうは建物ありそうだったよな。……なんかどんどん暗くなってんなあ、木ぃ増えてるか?」
「いや、むしろ……」

周囲を見回し思い思いの感想を零していけば、案外すぐにCへ到着した。数歩先を歩いていたリツィが立ち止まったのを見て二人も足を止めれば、途端に拓けた土地が現れた。

「……こりゃ、入れねえか」

ざあっと吹いた風に、三人が立つ地面から土埃が舞い上がる。Cに立ち入ることは、どうやら不可能であるようだ。
Cと呼ばれるこの場所を差別化するようにして、背の高いフェンスが線を引いている。その上部には何段にも有刺鉄線が重なっており、侵入は困難であるとは想像にかたくない。以前と異なり上部のみで、また、フェンスそのものが万が一落ちたとすれば無事では済まない高さを誇っているため、無理やりこじ開けるなどという荒業は通用しないだろう。
幸い、フェンスから中の様子を覗くことは出来るようで、さらにC内部には視界を遮る建物などはないため、観察に支障はない。中のものを持ち帰るだとかそういうことは難しいだろうから、ここに船員の探す物が落ちていないことを祈るばかりである。

「崩壊前の元の世界では、ここも建物あったらしいな」

Cの最奥、欠片の端には建物に通じていたと予想される階段が見えているが、途中で途切れてしまっている。世界の欠片が、崩壊した世界のごくごく一部、正に欠片であるからこそこのような不完全な形で存在しているのだろう。

「建物もあったなら、よっぽど広い……基地?だったんだね。戦闘機みたいなの沢山あるし……これきっと滑走路だ」


第十五話: テキスト

フェンスの奥を覗いたとき、真っ先に目に入るのはずらりと並ぶ戦闘機だった。

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第十五話: 画像

不完全に欠けた世界の名残の中、唯一完全な形で存在するそれらに自ずと目を引かれた。ぐ、と目を細めて遠くに並ぶ一機一機を見ていけば、傷だらけで一部が破損しているものもあれば真新しいものまで様々だったことがわかる。
ハイルの指した先には一直線に続く舗装された灰色があった。長らく野ざらしで手入れされていないのか、描かれた白線は掠れている。まさしく、ハイルの記憶にある、空港の滑走路だった。

「戦闘機……並行世界の資料でそんなものを使っている世界を見た覚えがある。戦争をしていた」
「あれ、バグなくても世界滅びるだろって思わないか?そんなこと起きないけどさ」
「滅びた世界、という並行世界が残ることになるな」
「だなあ、俺あれ見かけると虚しくなるんだよ。嫌だよな、戦争とか」
「ああ」

欠片の端に位置しているからだろうか、ここは少し風が強いようだ。横風にリツィの帽子が吹き上がり、ハイルの足元に落ちた。

「フェンスの中なんにも無いみたいだね。わ、リツィ、帽子……あれ?」
「ありがとう。どうかしたか?」
「今屈んで気づいたんだけど……森の近くに何かあるみたい。シャルルのすぐ後ろ」

第十五話: テキスト

「後ろ?」

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第十五話: 画像

シャルルが振り向いて視線を落とす。A-1と三人のいるフェンス前との、丁度境目だろうか、地面に"何か"が落ちていた。風に揺られ木々が落とし、そうして積もった葉に埋もれていたようだ。覆いかぶさっていた葉が先程の強風で吹き飛ばされ、三人の前に姿を見せたらしい。

第十五話: テキスト

「これ、ディスク……か」

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第十五話: 画像

錆びついたディスクは葉にまみれ、人知れずそこに眠っていた。


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《____リビングにて》

終業時間を前に船員は続々と船へ戻ってきている。探索後の行動はそれぞれで、リビングには二つ、影が見えた。船員同士、和やかに軽口を叩き合っているようにも見えるが、空気はどこかひりついている。

「なあスイ、お前ちょっと前から変だろ?」
「メルトのほうが変だにゃ」
「うわうるせ〜!俺んなこと聞いてねえんだわ」
 
ぶっきらぼうな返事にメルトダウンは冷えた瞳でけらけらと笑う。翠はそんな彼の様子を見つめ、不可解そうに眉を寄せた。

船内をあてもなく歩いていたメルトダウンがリビングで寛いでいた翠に声をかけたのがはじまりだった。ぴょこんと跳ねた一束と、特徴的な帽子のてっぺんがソファの背から覗いていたため翠だと分かり、話しかけたという。明らかに翠の知るメルトダウンとは異なっているせいだろうか、翠は彼を警戒しているようで、言葉にはどこか棘があった。

少し前から、メルトダウンは、翠が「ディスクを見た側」の船員であると踏んでいた。今は以前と変わらずにゃあにゃあ鳴いているが、ほんの一瞬、翠とは異なる穏やかな少女が顔を出すことがあることに気づいていた。ディスクを見たと、そんな予想が的中していたならば、天真爛漫な  顔の下に隠された本性や知られたくない過去だって取り戻しているのだろう。他人の昔話なんて毛ほども興味はないが、その話は、あるいは自身の言葉を契機に古くも癒えない生傷が顔を出した人間の様を見るのは、きっと暇潰しには丁度いい。少しつつけば面白いものが見られるかもしれない。メルトダウンは、にぃと笑って訊ねた。

「で、ディスク見たの?どんなだった?」

彼の発したディスク、という単語に、翠が大きな目を瞬かせる。

「ディスク……?んん、あんまり覚えてないにゃ。あ、でも兄サマに会えたのだ」
「はあ?忘れるなんてあるかぁ?シアターで見たんだろ?おかしい奴〜……ん?ニイサマ?」

小首を傾げた翠は、メルトダウンの期待に反し、全く狼狽えることはなかった。兄サマ、と口に出した途端に声は弾んだが、それだけだ。当たり前といった様子で続けている。
翠の意識の中に、過去の記憶を留めておくことは今や難しい。シアターの使用は脳に負担をかけるのだ。特別大切な、絶対に忘れてはならなかった家族のことは大事に抱え、あとはみんな奥底にしまい込んで、自ら引っ張り出すことも、いつでも取り戻せる位置に置くこともないのだろう。彼女の引き出しは限られている。
兄のことを聞き返したメルトダウンに、翠はぱあっと表情を明るくして頷いた。

「ん!漢林兄サマ。約束したのだ、たぶん」
「ハンリンニイサマ……?なんだそれ、人間と話してる気しね〜ホント」

次はメルトダウンが不可解な顔をする番らしい。思い描いた「面白いもの」とは程遠い眩しい笑顔を前に、思わず顔を顰める。事情を知らない相手に理解させるにはあまりに情報不足で、相手の感情の昂りまでをも楽しむ心積りだったメルトダウンには拍子抜けするような返答だった。

「メルトは?」
「あ?」

翠が、不意に尋ね返す。

「兄サマみたいな、……お兄ちゃんとかのことなのだ。家族!メルトの家族は、どんな人だったにゃ?」

わずかに頬を引き攣る感覚。馬鹿にしてやるつもりで、思ってもないことを口にした。甘ったるくて、嘔吐いてしまいそうな綺麗事だ。


第十五話: テキスト

「…あー、家族ぅ?あっは、お前ら船員が家族だよ♡」

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第十五話: 画像

翠はまた、こてんと首を倒してみせる。

「家族じゃないにゃ?お前はべつに、兄サマじゃないのだ」
「……つまんねーなあ本当さあ、もういいよお前」

普段ならば否定されたところで特段思うことも無いというのに、なぜだかいやに腹が立った。家族という単語に、反射的に顔が強ばったことも気に入らない。舌を打てば、翠が何やら不満げに声をあげた。まともに返事をする気も起きなかったため生返事でやり過ごしていると、翠はついに呆れたようで、リビングを去っていった。
部屋に一人。その目にもう温度はなく、彼は一度、苛立ちに任せて机を蹴り上げた。


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《____管制室にて》

三人で、ディスクを拾った。シャルルがつい先日存在を知り、リツィの提言により船長からの具体的な説明もなされた、ディスクというもの。全員にあると明言されたばかりで、ならばこれはきっと、未だいるというディスクを見ていない船員のうち誰かのものなのだろう。

船員みなで、ペスタのものと思しきディスクを前に考えを共有したのは記憶に新しい。それに則れば、誰かのものなのだから勝手に見るべきではない、そんな結論に至ったはずだ。そして何より、それを主張したのは正に今ここにいるハイルだった。当然三人の結論も同様で、彼らはシアターに向かうことはしなかった。

船長から説明がされた際、彼は全員の過去を把握していると話していた。ディスクを一目見れば誰のものか分かるのかもしれない。なにか、照会する方法があるのかもしれない。ならば一度船長に任せ、誰のものか確認する、あるいは持ち主の名は聞かずに直接船長から渡してもらう、それが最も良いように思われた。

「確か、映像止められるものがあるけど使わない、知りたいのなら邪魔はしない…って船長さん言ってたよね。……私はやっぱり、見ない方がいいと思っちゃうんだけど……でも、ああやってみんなの前で言うくらいだから、そのまま渡さないなんてことはないと思う。信じてみてもいいかなって」
「そうだな。なら、船長を探そう」

リツィの言葉に頷き進んでいく。三人が船に辿り着いた頃は、終業時間、つまり夜が目前に迫っていた。

「しかし、やはりこの中の誰かのもの……なんだろうか」

これまで、ウェルテルのものと、メルトダウンのものを、本人と共に目の当たりにしてきた。そしてそのすべて、本人がディスクを見つけてきたのだ。たった二例であり単なる偶然かもしれないが、リツィは、ルークやヘデラなど他の船員と同様、法則性を感じずにはいられなかった。

「え、どうして?……ディスクになにか、心当たりあった?」

ハイルがリツィに問いかける。リツィが自身の感じた法則性を告げれば、シャルルは納得したように頷いていた。きっと、ペスタのことを思い浮かべている。

「法則性なんてあるんだな……引き寄せられるのかねえ」
「……言い出しづらいんだけど、私、一人で他の子のもの拾ったことあるんだ。だから絶対じゃないと思う。でもなんだろう、……自分のは自分で拾ったしなあ……」

ハイルの言う例外に首を傾げていれば、管制室に船長の姿を捉えた。シャルルが、何やら資料を確認しているらしい船長に呼びかける。

「船長〜、これ」

投げられた声に気がついたのか、ファイルを閉じ、船長が応じる。

「ん?ああありがとう、部品か……違うね。これを僕に持ってきたってことは、誰のものか聞きに来た?」
「いや、船長に預けて本人に渡してもらおう、と話していた。私たちが部外者だとしたら、それは無断で知るべきではない。船長も、今更これを手元に留めることはないだろう?」

船長は手渡されたディスクをじっと見つめ、リツィの言葉を聞いて、そうして帽子の鍔に手を伸ばした。思えばこれは、彼の癖なのだろうか。こうして深く帽子を被り逡巡している姿を、欠片を渡る旅の道中でもう何度も目にしている。

「……僕は、自ら見るのなら止めない、ってだけだよ。出来るのなら見せたくはないさ。このまま、渡せないかもしれない」

見せたくない、だから渡すことはない、かもしれない。そんなことを言う船長は小さく見えて、シャルルは笑って言葉を返した。

「はは、そんなこと言わずに黙って受け取って、そのまま持っておけばバレないのになァ。船長、随分とお人好しじゃねえか。本当にそのつもりなのか?」
「……参ったな、本当は渡さないでおくことも出来そうになくて。……わかった、責任を持って本人に渡しておこう。三人とも、探索お疲れ様」

船長告げた了承と労いに頷く。そうして、三人はひとまず管制室を去ることにした。
ディスクは誰の手に渡るのか。誰のものであるのか。そしてそれを、彼だか彼女だかは見ようと思うのか。
シャルルは一度、管制室を振り返った。……それは自分かもしれないが、きっと、手にした誰かはディスクを見るのだろう。ならばそのとき、助けになれる誰かがいればいいと心から願う。


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《____シアターにて》

欠片は眠り、船員はみな帰船した。身動きなど取れそうもない闇の中、取り残された船員はいないらしい。こんなことを聞くと、行方知れずになった彼らの帰りをただひたすら待つことしか出来なかった、あの雪の欠片を思い出してしまう。

『トロイ、少し、いいかな』

船長から彼女へと無線があったのは探索を終え船に戻ったあと、夜時間のことだった。
手渡された、船長曰くトロイのものというディスクは錆びついていて、見た目よりも重く感じた。きっと、ディスクと言われ咄嗟に頭を巡った、兄と妹の影響だろう。

「……ほんとにあったんスね」
「……僕は見てほしくないけどね。選ぶ権利は、君にあるべきだと思う。よく考えて、君自身で好きなように選んでくれ。見るか、見ないか、もしも見るならば、一人で見るのか、誰かと見るのか」

そうして眠れない夜が明け、始業を迎えた。
……手にした以上、ディスクのことは常に思考に付き纏う。どんなに辛い過去だって乗り越えた二人を見てきたのだ。自分ばかり逃げてはいられないと、どうしてもそう思ってしまう。酷な内容と分かった上で見せたい相手などいるわけがない、けれど、一人で見る勇気なんて持ち合わせてはいなかった。
そんなとき、トロイの思考でも読んでいるのかというようなタイミングで声をかけるのは、いつだって鮫だった。そこで思い切ってお願いをした、というより、不意をつかれて鮫にディスクの存在を知られてしまい、一人にさせてなるものかと彼が食い下がったため、折れたのだ。

「俺様で言ったら鈴杏みたいな、忘れちゃいけないことまで忘れてるかもしれないし、見るって言うなら止めない、けど!一人で見ちゃって倒れたら普通に危ないし、それに一番辛い時に誰にも名前呼んでもらえないとか俺様がいないとかさ、寂しいでしょ。トロイのことなら何でも知りたいけど、知られたくないのなら外にいるから」
「……ありがとうございます。いえ、一緒にいてください。……ワタシばっかり全部知ってるなんて、不公平っスから。じゃなくて、……知っててほしいんスよ、鮫サンに」
「そっか。……ありがと、トロイ」

翠には悪いが、彼女に見せることはしたくなかった。映像を見たのだから、姚鈴杏を知ったのだから、これ以上彼女にシアターを使わせることは避けたかった。トロイが自身のディスクを見ることについて、一人で見るということを除いた選択のすべてに関して、鮫は口出ししないと決めているようだ。これ以上、見る人を増やしたくないというトロイの意向にも、黙って頷いてくれた。

今、二人はシアターにいる。あとはスイッチを押すだけで、欠けた記憶は彼女へと還されるのだ。他でもない自分自身が重ねてきた時間だ、いつかは向き合わねばならない。

わずかに震える指に、力を込めた。


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____開演____


【××の挺身】


死とは名誉である。我が祖国のため、戦において命を遂げることが出来たのならば、それは何にも代え難い幸福である。

そうして最期まで勇敢に戦い抜いて英雄となった父に、自分は憧れたのだ。だから、さ!
すっかり広くなった食卓に、弾んだ声が響く。反応を気にしているのかちらちらとこちらを伺うヘーゼルブラウンに、何故か無性に腹が立って、彼が望んでいないであろう返事を寄越した。喧嘩になった。
こうした言い合いが日常の一部であったのは、もう随分と前だったような。何やら熱弁をふるう彼を横目に頬杖をつき、ちら、と食卓の椅子に目を落とす。

木目調のテーブルと対をなす椅子は四脚で、自然と家族のうちで指定席は決まっていた。一脚は未だに父の帰りを待ち、そしてしばらく前に、もう一席、眠りについた。二度と使われることのない二脚はテーブルを前に寄り添いあって、静かに佇むばかりである。
母は、父の死を境に体調を崩しその後を追うようにして亡くなった。きっと我らが英雄が連れていってしまったのだろう。父はとても深く家族を、妻を愛していて、そして何より家事が出来なかった。向こうでも生活に困っているはずだ。二人は天国で、私達と同じように、四脚あるうちのふたつだけを使って食卓を囲んでいるのだ、と、思う。

母が亡くなるそれまで、私達の間には喧嘩が絶えなかった。もはや習慣と言っても良いくらいで、二人分の両手両足その指に、目や耳までも足したとて数え切れないほどに喧嘩した。そうともなれば仲直りだって同じ数だけこなしてきているのだ、お決まりのパターンだって自ずと生まれるものである。翌朝、机に置かれた見慣れた葉っぱに、不満げに眉を下げる彼の顔が思い浮かんで頭を搔いた。仕方がないから、というより機嫌に任せて悪態をついてしまった私が全面的に悪いのだから、今回はこちらから謝ることとする。

「おはよう、……その」
「おはよ。フ、思ったとおりの顔してる。……昨日はごめん。あんなの全部、本心なんかじゃないから。うん、私、兄さんの夢応援する。軍隊に入るのも、戦うのも」
「そ……そっか!いやー良かった、本気で反対なんてされたらどうしようかと……今度こそ許してくれないんじゃないかって」
「本心じゃないことくらい分かってたでしょ」

目の前の、ひどく馴染み深い顔を覗き込む。まるで鏡を見ているようだ、なんて、これまでに何度思ったことだろうか。

「私たち、双子なんだから」
「フフ、そうだね、【ヘーゼル】」


数ヶ月を経て、ついに兄の入隊が決まった。青く澄んだ空が広がる晴れやかな今日は、入隊式に相応しい、素晴らしい日だ。耳に届く軍楽隊の演奏は見事に空間を彩り、この入隊式が、我が国家における厳かで栄誉ある儀式であることを人々へと知らしめている。
上官によってひとり、またひとりと名を呼ばれ、新兵は短く声を返し立ち上がる。ああ、もうすぐだ。兄の入隊が、彼の夢への第一歩が、目の前にある。


第十五話: テキスト

「トロイ・ディラン」

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第十五話: 画像

小柄な新兵が絞り出した声は、男性にしては少し高かった。

……

夢を叶えてやりたかった。
父の背を追い、戦場で国のため命を遂げる英雄に憧れ、夢を語る兄の姿は眩しくて、私はそんな彼の笑顔が好きだった。笑うのが下手な自分と同じ顔で、朗らかに笑うトロイを見ていると、私たちは別の人間で、鏡に写った一人ではないのだと思えて安心した。一人きりじゃない。孤独じゃない。二人なら、なんだって出来たのだ。

喧嘩をした。
病に伏した兄が、入隊が叶わないと悟り一人嘆いているのを知っていた。身を裂くような絶望に襲われ、尚気丈に振舞おうとする悲痛な姿に怒りが湧いた。みんな、私には伝わっているというのに。二人なのに、一人で勝手に諦めようとする目の前のこいつに腹が立った。
兄のそれは、不治の病でもすぐに命に関わる病でもないのだ。治る病。けれど、入隊式にはどうしたって間に合いそうもない。ならば、治るまで、治るまでを耐え抜けばいい。運良く私たちは二人だった。同じ顔がふたつ。出来ないことなんてなかった。不思議と、誰にも見抜かれないと確信できた。
いつもは温厚な兄が、そんなことはさせられないと声を荒らげる。どうして分かってくれないのかと冷たく言い放って、私は兄に背を向けた。翌朝……入隊式の日の明朝、テーブルに、葉は無かった。髪を刈り、丁寧にシワが伸ばされた真新しい軍服を乱暴に羽織って、身だしなみを整える。鏡には、紛れもなく兄がいた。若く、軍役に相応しい、健康体の兄。今日から晴れて軍人となる、トロイ・ディランがそこにいた。
夢を叶えてやりたかった。きっと、これなら。いや、必ず。

体調が優れないのか、兄は朝を迎えど目覚めない。看病は隣人に頼んでおいた。あとは兄の頑張り次第だが、必ず、病を治して夢を叶えてみせるのだろう。私がここまでしてあげるのだから、報いてくれなければ割に合わない。
……もう、行かなければ。思い出ばかりが残る我が家に別れを告げて、扉を閉めた。

兄さんの病気が治る日を、私は戦場で待っています。
私がトロイになるから、安心して。

書置きとともに、机に庭木の葉を置いた。私が葉を摘んだのは、もしかしたら、初めてだったかもしれない。

……

兄の夢を叶えるためと思えば、戦場だって居心地が良かった。確信は事実に変わり、私は今、トロイとして務めを果たすことが出来ている。兄のことを深くは知らない人間たちの中で兄を装うのは、さほど難しいことではなかった。私は、今日もまた、下手くそな敬語を話している。
そうして日々を過ごしていけば、いつしか、ごくごく狭い範囲の戦略になら異議を唱えられるような、そんな立場を許された。

兄とはたまに連絡を取っている。彼の病状の経過と、長々と連ねられる帰ってこいという内容の口煩い言葉。そこに、軽快した完治したと書いてしまえば私は帰るというのに、トロイは嘘を書くことはしなかった。彼の誠実な性格が、私の知るそれと全く変わりないようで笑いが零れたのはつい昨夜だ。

きっと、そのせいだと思う。いや、兄の手紙が悪いのではなく、私が気を緩めてしまったせいだと思う。私は、私が上手くやれていると思っていた。けれどそれは、知らず知らずに心をすり減らして、気を張り続けていたからこそ、出来ていたのだ。だってこんなもの、いつもの私なら、絶対に見落としやしなかった。

兄は、父は、母は、私を見てくれているだろうか。家族を思ってその一瞬、一歩、出遅れる。
そして、視線の先に、この場にいるはずのない敵兵を捉えた。まんまと嵌められたのだと、気がつくのに時間はかからなかった。

気を緩めてしまった私が、こんなにも分かりやすい落とし穴に思い至らず一言口を出してしまった戦略。本来この場に向かう予定なんてなかったのに、私が変更を提案してしまった、戦略。それが、この場のすべてを覆した。仲間の命を、無益に奪った。現状を理解した途端、土に汚れた軍服の下で、汗がどっと吹き出る。
違う、待って、私は裏切ってなんていない、内通者なんかじゃない。私は、罠だなんて知らなかった。そんなふうにみっともなく喚いたところで、残虐な罠を目前に立ち止まり小隊で唯一生き残った一軍人の言い分なんて、そんなもの、誰ひとり耳を貸すはずがない。家族を思って呆けてしまった、とは戦場には有り得ない平和ボケした町の娘の言葉で、もしもそんなことを言えば陥れたと自白しているようなものだった。馬鹿の言い訳だ。聞き入れてもらえるはずも、信用を取り戻せるはずもない。そんなことまで咄嗟に理解したこの頭脳が、今ばかりは憎かった。

呼吸が浅い。耳鳴りがする。こんなにも心臓が煩いのに、血の通わない人形が如く手足は冷えきって震えている。思考はもうぐちゃぐちゃで、そんな中、ただ一筋、縋る糸が見えたのだ。光の射す、あたたかい私の居場所。……生きたい。会いたい。帰りたい。私の家に、家族のもとに、帰りたい。
爆発音と、痛みに喘ぐ叫び声が鼓膜を裂く。肉の焼ける臭いに生理的な涙が浮かび、世界は滲んで流れていった。もう、とっくに思考はやめた。かえりたいだなんて、迷子の子供のような願いだけが頭を埋めつくしていた。……そのあとどうやって体を動かしたのか、ほんの少しも覚えていない。

……

多くのものを犠牲にし大敗を喫した戦場から、忽然と姿を消したひとりの軍人。聞けば、彼がこの惨劇を生んだという。
トロイ・ディランはこの日から、国家へ謀反を起こした犯罪者、そして憎き敵国のスパイと見なされ、裏切り者の烙印を押されることとなる。

……

そうして、家に帰った。正確には、使い慣れた自分のベッドで目が覚めた。ベッドサイドには兄がいた。久しく顔を合わせた彼はもうすっかり血色が良く、少し痩せているが健康に見えた。ヘーゼルとして誰かと言葉を交わすのは久しぶりだ。安堵からか、あれほど私を満たしていた不安は次々に消えていった。この場所は薄汚れた世界から切り離されているような、そんな心地がした。
兄によれば、私は、辿り着いて彼を見るなり倒れ込み、それからしばらく眠っていたようだ。寝こけているうちに、私が事の顛末を伝えるまでもなく、国の御触れで兄は何もかもを悟ったらしい。それは隣人たちも同様だったが、それでも私を国に売らなかった隣人たちは、相も変わらず優しかった。
謝り、後悔し、無力さにただ泣くばかりの私を兄は責めなかった。それどころか、穏やかに笑い、私が泣いているのを茶化す始末だ。生きているだけでいいのだと、また話せてよかったと、そんなことばかり言う。いっそ酷く罵って、お前のせいだと責めてくれたのなら救われたのに。


私の首に懸賞金がかけられている、とは予想した通りだった。かけられた嫌疑は身に覚えのないものばかりだとか、そんなことはもはやどうだっていい。何も、覆りはしないのだ。
私が、本当に、大切な兄のことや心優しい隣人を想うのならば、清く正しい心の持ち主だったならば、きっとこの身を捧げて金に変え、栄光ある未来の足しになるようにと祈るのだろう。けれど私には、どうしてもそんな勇気は無かった。逃れられるはずもないのに、迫る死から逃げて、仲間の死から目を背けて、ただまっすぐ愚直に逃げ続けて、そうしていたずらに時間ばかりを消費して、結局何も成せずに追いつかれて、命の根っこを絶たれるのだ。
私が悪い。失敗したのも、不名誉な裏切り者であるのも、トロイ・ディランその人ではなく、ヘーゼル・ディランが演じた"トロイ"だ。このまま生きたところで未来は無く、ならば潔く死ぬべきだとは、驚くほどに合理的な最善策なのだろう。
でも、死にたくないと願うくらい、許されはしないだろうか。

生きたかった。このちっぽけな世界で、帰ることのない両親を待って、兄と他愛もない喧嘩をして、葉っぱをきっかけに仲直りして、そうしてただ幸せに生きたかった。人生なんて、坂もなければ崖もない、平坦な一本道でよかった。戦場で華々しく散る英雄となる、そんな兄の夢を叶えてやりたいとは本心だが、……本心だったのだけれど、死の間際に私が焦がれたのは、そんな、ありきたりで退屈な夢だった。

ひとしきり再会を喜び、兄となんでもない話をして、一口だけ水を飲んだ。会話は途切れ、木々のざわめきだけが耳に届く。心地よい沈黙に包まれる。



第十五話: テキスト

「しにたくない」

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第十五話: 画像

不意に、空気が震えた。切望した日常に、ほんの一時とはいえ浸ってしまったせいだろう、叶わない願いが零れ落ちた。柄にもなく感傷的な、弱々しい言葉だった。心なしか喉の奥がぎゅうと締まり、目元に熱が集まってくる。
私は、どうにもならないことがあると理解した。受け入れた。それでも願いは消えなかった。死にたくない、それは紛れもない本心で、取り繕うことすらままならない。俯いて膝を抱えれば、また、木々がざわめいた。

「ヘーゼル」
「……」
「ヘーゼルはヘーゼルで、僕がトロイだ」
「……っ、待って兄さん、」

思わず顔を上げた。トロイが、へらと笑っている。
トロイが、ぼんやりと歪んでいる。

「僕ら、双子だもんな」
「お互いのこと、一番、わかってるよ」

ずく、と心臓が痛む。恐怖に呑まれた、あるいは、罪悪感に苛まれたときのような痛み。これは私の痛みだろうか、それとも。

「ねえ違う、私が」
「大丈夫、何も心配しなくていいよ。……でも、起きたらたぶん、怒るよなあヘーゼルは」

ぐわんぐわんと、視界が揺れた。

「ごめん。きっと、仲直りしようにも今回ばっかりは許してくれないんだろうな」

意識が遠のく。

「兄さ、……やめて、ねえ、トロイ!」
「おやすみ、ヘーゼル」

……

トロイ・ディランは捕らえられた。
祖国を裏切り、敵に与した彼だったが、最期まで我が国家に忠誠を示すことはなかった。とうとう口を割らなかったため、牢で無残に命を散らしたらしい。

かつて、立派なハシバミに生活を彩られた、仲睦まじい家族がいた。


第十五話: テキスト

今や朽木と成り果てたその庭木は、もう二度と、葉をつけることはない。

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第十五話: 画像

【ヘーゼル・ディランの挺身】




____終演____



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ぽつ、ぽつと灯りは点る。二人を置き去りに、シアターは先刻までの姿を取り戻した。

「……ああ、そう、そうだ……私は……」

もう何も映ってなどいないスクリーンを前に、彼女は乾いた瞳を茫然と揺らし、意味もなさない言葉を連ねている。動揺を隠せていない。隠そうと思い至る余裕もない。彼女の様子に、鮫は堪らず声をあげようとした。

「ト、…………ッ……」

呼び慣れた名は、彼女が騙った兄のもの。今このとき、それを彼女の名前として口にしてしまうことがどう影響するのか、それが分からないほど、能天気ではいられなかった。きっと、"トロイ"として返事をして、彼女は彼になってしまう。そうやって生きてきたのだ。"トロイ"として、生きてきたのだ。
ヘーゼル、と名を呼ぶ声を、彼女へと届かせることができるのは、きっとこの世にたった一人だった。もう何処にもいない、トロイその人だけだった。つい先程その名を知った鮫が呼べども、あまりに薄っぺらいそれはただの単語に成り果てて、届くことなく惨めに床に転がるのだろう。

言葉を喉を詰まらせる鮫の姿はなかなかに珍しくって、似合わないだなんて言って、笑ってやろうと思った。笑顔をつくろうとして、それなのに、口元は変に歪むばかりだ。どうしてだろうか、上手く笑えない。笑わなければいけないのに、トロイは笑顔が上手なのに。

少しだけ冷えてきた頭で、ぼんやりと鮫を見た。
心配してくれている。何か、伝えようと口を動かしている。音はひとつも耳に入らないけれど、きっと、元気づけようとしてくれている。彼は善人だ、もったいないくらい。
彼はちゃんと約束を果たして、妹と再会した。ふたりの仲睦まじい姿は、揺るぎない絆を感じさせた。美しいその繋がりは傍から見守るだけでも幸せで、ワタシの心まであたたかくなった。共に手を取り、あまりにも理不尽で耐え難い過去を乗り越えた。そして、平和な毎日を享受している。妹と一緒に。兄と一緒に。

ああ。

羨ましい。
なんで、わたしだけ。

「は?」

わたしは、今、何を思った?
彼らは何も、本当に、何一つ悪くない。鮫だって翠だってどうしようもなく善人なのに、不運な境遇に身を置いて、因果応報なんて言葉は真っ赤な嘘なんだ、と漠然と思ったことを覚えている。
ならば、わたしは?だれが悪かった?入れ替わりを提案したのは、失敗をしたのは、誰だ。成し遂げられずに尻尾を巻いて逃げ帰って、あまつさえ死にたくないなんて言ったのは、誰だった?

何を、羨むなんて図々しい。こんなもの比較になりやしないのに。

「フ、あ、ははっ、最低だ、私」

鮫の、見開かれた目が痛い。私、じゃなくて、ワタシ、ちがう、僕は。
あれ、どれだったっけ。

脈絡のない彼女の、自らを奈落へ突き落とすような言葉に、声は届いていないことに、彼女が自覚出来てすらいないのであろう痛みを悟って、鮫の顔が大きく歪む。
この人は、兄を亡くしてからどんな日々を暮らしたのだろうか。辛かったのだろう、苦しかったのだろう、計り知れない苦痛が、そこにはあったのだろう。小さな体躯に何もかもを詰め込んで、どうしようもなく自分を責めている。襲い来る、途方もない喪失感と自責の念は彼女だけのもので、共有することも理解することも叶わない。二人を隔てる深い溝を埋める術も見当たらない。

そもそも、溝は正しく見えているのだろうか。もしかしたら認識することだってできていないのかもしれない。
最低だなんて何を思って呟いたのか、鮫にはどうしても分からなかった。



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第十五話: テキスト
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