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第六話

第六話: ⑥

《____2F廊下にて》


S▍A*E-▍**W202を出立し、異空間を越えてアハルディア47は7⊃NB3R-J▆CKL9に停泊した。まだ見ぬ世界の欠片へ、船員たちは停泊した船から次々とその地に降りていく。ヘデラとエスペランサも例外ではなく、傍にいた二人は他愛ない雑談を交わしながら船外に向けて足を進めていた。


「それで………あ!そうだ、エスペランサさん。ちょっと変なことあったんですけど聞いてもらえますか?」

「うん?変なことって?」


突然全くの別方向へ舵を切っても構わないような話題だったらしく、話を遮ってヘデラが声を上げた。エスペランサは不思議そうに彼を見つめ、次の言葉を待っている。


「僕、前の世界の欠片にあった彼岸花を摘んで持ち帰ってきた……って話はこの前しましたよね。」

「そうだね。……彼岸花がどうかしたの?部屋にあるんだよね」

「そう!そうなんですよ!僕部屋に持ち帰ったんですよ、いつもみたいにちゃんと。」


ほんの少しだけ人よりも物が多い自室を思い返す。机上に置いた花瓶と、そこからひょっこりと顔を出す青。自室で世界の欠片について考察する際いつも目に入るそれは既に異物ではなく、彼の部屋に溶け込んでいた。

彼は、持ち帰ったのだ。彼岸花を、ちゃんと、自室に。

植物に触れることの多いヘデラが普段花を愛でる時と同様に。

第六話: テキスト

「持ち帰ったのに弱っていって、起きて見てみたらついに枯れちゃってて。」

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第六話: 画像

ヘデラの言葉に、エスペランサは目を丸くする。口元に手を添え考えるような仕草をしたのち、再びヘデラと目を合わせると彼に向けて言葉を返した。


「……温室でもないのに?」


異空間を常に航行しているアハルディア47、その中には温室という施設がある。食糧確保がこの温室の主な役割だが、船員の中には趣味の一環として温室で植物を育てている者もいた。

温室内の作物は、通常、収穫時期を迎えると速やかに収穫され食堂に備え付けられた機械のボックスへ入れられる。そして、船内の食事である完全栄養食を作る材料とされる。

……作物は速やかに収穫しなければならないのだ。何故なら、温室内では作物の成長を急激に早める特殊な科学技術が用いられているから。

成長を早めているならば、当然の話だろう。育ちきった作物を放置してしまえば立ちどころに腐り、枯れてしまう。それは他の植物にも言えることだった。特に、美しく華やぐ色彩を身にまとって人々を魅せる、非常に短いそんな期間を楽しむ花なんかは、タイミングを逃してしまえばすぐにその全盛期を終えてしまうのが常だった。

そのため、花を愛でるには文字通り花盛りを逃さず摘むことが必須の条件だったのである。温室を出てしまえば花はいつまでも咲き続けているのだから。

ヘデラはS▍A*E-▍**W202においてもそれに従ったまでであり、それ故に温室外で枯れてしまったことに疑問を抱いていた。もちろんエスペランサも同様にしてそのことに対し疑問を抱き、言及した。


「そうなんですよ。いつでも観察出来ると思ってたのに、もう難しそうで残念です。」

「何でだろうね……まあ船長も世界の欠片は不思議な場所だって言ってたから、何が起こっても仕方がないんじゃない?世界の欠片の特性のひとつなのかもしれないし、そこにあった物……今回は彼岸花かな、それ自体が何かおかしいのかもしれない。」

「確かに、そう考えることも出来ますね。じゃあこんな可能性も__」


ああでもないこうでもないと様々な可能性を口にしながら、二人は世界の欠片に降り立った。



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《____船の周辺にて》


船を降りたリツィは、まずこの世界の欠片がどういうものなのか大枠を把握するために見回すことにした。見知らぬ土地だ、何であれど知ることから始めなければならない。


下船直後、真っ先に目に入るのは地面を覆い尽くす白。見渡す限り、一面が銀世界だ。足跡ひとつない新雪が眩く反射し、美しく輝いている。思わず感嘆の溜息を零せば、それは白いもやとなって外気に消えた。

見回してみるに、マップにおける外側らしき部分はすべてこうした雪の道らしい。

世界の欠片の中心に目をやれば、錆びついた建物が一部を除き隙間なく立ち並んでいる。船からではよく見えないがどうやら真新しい建物では無さそうだ。

積もった雪は踏んだ程度で消えるほど薄い層ではないようで、押し固められた雪が足跡を形作っている。少し掘り返してみれば硬い地面にたどり着いた。舗装されているらしく、ゴツゴツとした黒い地面はそれ以上掘れそうもない。

また、停泊前に異空間から見た際の7⊃NB3R-J▆CKL9は欠片の真上にも何かが浮いているような形をしていたが、見上げても白が映るばかりでその様子は認められなかった。雪雲にでも阻まれているのだろうか。そのわりに雪が降るような気配はなく、気候は安定しているように思われる。


「雪が降るなら、甲板の雪かきをしなければならないかと思ったが……その心配は無さそうだな。少なくとも今は。」


一通り観察を終えると、リツィは途端に肌寒さを覚えた。雪が溶けていないだけあって、この世界の欠片は気温が低いようだ。コートを少し引き、体に密着させるようにして寒さを凌ぐ。


「……寒いな。」


制服だけでは恐らく震えてしまうような寒さだ。一部の船員を思い浮かべ、眉をしかめる。

……早急に防寒着を用意しなければならないな。船に戻ったらペスジアにでも相談しよう。

観察も終え、探索のため内部に向かおうとしたところで足元の白い山が目に入った。じっとそれを見つめたのち、リツィはおもむろにしゃがみこみその山に触れた。

先程掘り返した雪、その余剰分を丸く成型して二つ重ねる。小さなそれに指でギザギザの歯を描くと、笑顔の雪だるまが完成した。彼女は出来上がったそれを見て小さく頷くと、今度こそその場を後にした。



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《____船の裏にて》


ざく、ざく、と一歩進む度に足裏に伝わる不思議な感覚。

これが、いつか覗いた並行世界でも見た覚えがある雪というものらしい。ルークはその新鮮な感覚に、足元をまじまじと見つめては現れる自身の足跡を振り返り、そうしてゆっくりと船の周辺を歩いていた。

表情に変化は見られないがかなり興味深いらしい。


ぐるりと一周船の周辺を歩いたところでふと顔を上げると、彼は眉間に皺を寄せて目を凝らした。

「……え、なに?あれ。」

白に紛れて、居る。……人間ほどの大きさの、白い何かが居る。

誰かといたって必要以上には言葉を発しない彼が思わず独り言を呟いた。口をついて出た言葉はルークの動揺をありありと示している。

彼が半歩ほど後退りすると、こちらに気がついたらしい"それ"はルークの意志とは反対に彼の方へと向かってきた。なに、なんだこれ。

……。

なんだ。


「…………13番……」

「どうもどうも〜!あれ!なんですかその顔!?」

拍子抜けしたのか、はたまた安堵したのか、ルークは白を纏ったペスタを呆れたように見つめている。ペスタはシーツに包まれていた。

その珍妙な格好は、彼女曰く寒さ対策らしい。

「降りたら寒かったんですよねー、着るものないかなって船に戻ったんですけど無くて!シーツ剥いできました!!」

名案だと言わんばかりに胸を張り、きゅっとシーツに包まるペスタ。ルークの冷たい目をものともせず彼女は通常運転だった。

こんなことに対して少しでも動揺してしまった自分への羞恥は胸に仕舞い、彼は小さく溜息を零した。

「あっ溜息はダメですよぉ、幸せ逃げちゃいますからね!僕が捕まえときましょうか?今逃げた幸せ!」

「はーあ…………」

ルークはペスタを見ると、改めて大きく溜息をついた。


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《____チイサナタテモノ周辺にて》



7⊃NB3R-J▆CKL9の中心地にはいくつもの建物が立ち並んでいる。中心地を囲うように立つ建物だが、その内部にも建物が連なっているのか建物越しにはいくつか背の高い影が見られた。

外側に面する建物の多くは背面を向けているか、または取っ手のない飾りのような扉が取り付けてあるのみで扉が開きそうなのはたった二箇所だけだった。それがマップ上のオオキナタテモノとチイサナタテモノである。

第六話: テキスト

どの建物もそれを形作る金属と思われる板は錆がこびりついており、今にも崩れそうな外観をしている。……もっと外壁に相応しい素材を用いればいいのに。

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第六話: 画像

ローレはそんなことを考えながら、チイサナタテモノの扉の前にいた。

腕を組み、仁王立ちして隅々まで観察する。外観は他のものと何ら変わりない。チイサナと呼ばれるだけあるらしく、他と違うのはその大きさだけであるようだ。外見から予測するに、ほんの一部屋程度しかないのだろう。

いざ行かんと扉に手をかけると、近くで呼びかけるような声がする。観察している間に誰かが来ていたのだろうか。振り向く。


「あ、やっと気がついてくれたんですね。ローレちゃん、私もご一緒していいですか?」

『一人はあぶねえぞ!』


見慣れた紫が、ほっとしたようにローレを見る。ペスジアだ。


「ペスジア!ゴメン、ボク無視してた?」

「気にすることでもないですよ」


ペスジアが朗らかに微笑みながら否定する。特に気を遣っている訳ではなく、事実彼女はこの直前にチイサナタテモノへと辿り着いていた。

一人では危ないと、それもまた彼女の本心だ。……ウェルテルの件を忘れられるはずもない。

あれ以来探索にほんの少しの恐怖を抱く自分のためでもあり、一人で怖い思いをさせたくないという相手のためでもあるその言葉。この先に恐ろしいものがあるかと問われれば答えることは出来ないが、 未知である限り可能性は存在するのだ。怖い思いをせずに済むならそれでいい、それがいい。

第六話: テキスト

ローレとペスジアは扉を開き、二人でチイサナタテモノに足を踏み入れた。

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第六話: 画像

中に入ると、ローレの予想通り一部屋しかない建物であったことが分かった。外観に反して中は傷一つなく真新しい。使われた形跡のない黒い家具と白い壁で作られるこの空間は、モノトーンでまとめられていてなかなかにセンスがいい。

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「なんだ、中は普通なんだ……つまんないの」

『何言ってんだ、普通が一番だぞ』


ローレは拍子抜けしたようにそう呟くと、エンペラーからすぐさま返事が返ってきた。エンペラーが何か言う度、ローレは少し笑ってしまう。部屋が和やかな空気に包まれた、途端。

____ガチャン。

室内に響く音に二人が咄嗟に振り向くと、閉めていなかったはずの扉が知らぬ間に閉じていた。

恐る恐る扉の方へ歩みを進める。何故閉じたのだろうか、今の音は施錠した時の音とそっくりだった。まさか。

どうにかして開けられないかあらゆる手段を試みるものの、開く気配は微塵もない。……これは、恐らく。


「閉じ込められた?」


ローレの言葉に、ペスジアが目を逸らす。無意識なのだろう、不安を紛らわすように彼女はそっとエンペラーを抱きしめている。


あれほど朽ちていた壁だ。家具を使えばもしかしたら壁を壊すことも出来るのかもしれない。そんな考えが浮かんでも、この場にいるのは頭を使う方が性に合うような非力な二人だ。強硬策は難しい。


ペスジアは辺りを見回し、ある一点を示した。

「……あそこから出るしか、ないですよね。」

部屋の奥、入口の向かいに備え付けられた黒い扉に目を向ける。取っ手のついた普通の扉。だが、ここから先も再び未知の世界だ。

顔を曇らせるペスジアとは対照的に、ローレの口角は自然と上がっていた。前言撤回、面白くなってきたじゃないか。

ローレは、元来の知識欲と好奇心、それに伴う未知に触れることへの喜びを噛み締めている。

「入口があったんだ、きっと出口もあるよ。何があるのか、……楽しみだなぁ!」

「ローレちゃんは凄いですね……よし、私も頑張ります」

浮き足立つローレにつられ、ペスジアも前を向く。

ついに黒い扉に手をかけてチイサナタテモノを後にした。



扉を閉めれば再び施錠されたらしく、ガチャンとつい先程耳にした音が鳴る。もう後に戻ることは出来ない。

現状を把握するため、ローレは辺りを見回した。扉の先に広がるのは、四方を塞ぐ建物群とそれによって生まれた細い路地。予想していた通り内部にも無数の建物が立ち並んでいた。非常に入り組んでいるらしく道の把握は難しそうだ。

タテモノを出てすぐに現れた道は、左右と正面の三つ分かれていた。ひとまず目の前の道を直進することにした。

ここはこうなっているのか、なるほど、などと独り言を呟きながら、ローレは先陣を切って奥へ奥へと進んでいく。重い足取りのペスジアはその背を追うようにして歩いていた。年上の威厳を見せる余裕などないようだ。元来、彼女はそれほど恐怖に強くはない。


『こりゃあ……厄介だな……』

「これは来た道戻ってやり直すしかないね!むしろボクは全部の道に行きたいなあ!!それにこれは探索な訳だしっ……」

「ローレちゃん……うう、楽しそうですね……今は無事に帰ることですよ、出られるのかどうかも分かりませんから……」


そうして道を進んでいったが、突き当たったのは行き止まりだった。入れるような場所も無ければ進める道も見当たらない。大した距離ではなかったが、ハズレの道をわざわざ引き返すのは時間の無駄のようで、なんだかやり切れないような気分になる。こうして何事も起こらないままに歩いていればペスジアの恐怖も次第に薄れてきたらしく、何やら会話しながら、二人は再び三又の分かれ道まで戻ってきた。

さてどちらへ進んだものか。


「エンペラー、どっちがいい?」

「えっ!?……っと、……ごほん。」

『それじゃあ俺のマフラーが垂れてる方……左に行くか!』

「なはは、それじゃあ行こうか!」


左の道に進み、しばらくすると見慣れた人影が目に入る。

毛先が淡く染まった白髪を三つ編みにまとめ、特徴的なシルエットの制服に身を包む彼女。二人の視線の先にはトロイがいた。

声をかけようとするが、……何か、おかしい。


普段であれば、冷静沈着で何事にも動じない精神の強さを見せるトロイ。だが今、彼女は忙しなく辺りを見回すと手当り次第といった様子で道の奥へと駆けていった。トロイは考えなしに動くような人間ではないし、探索で走り回るような性格でもないはずだ。

一瞬見えた顔は焦りからかひどく歪んでおり、その手は不安を押さえつけるかのように固く握り締められていた。

……ただ事ではないのだろうか。ローレとペスジアは慌ててトロイの後を追う。


「トロイ!!」

立ちはだかる壁を前にしてようやく立ち止まったトロイに追いついた頃には息も絶え絶えで、背後から名前を呼ぶので精一杯だった。さほど時間は経っていないのだろうが、短時間の全力疾走は永遠とも思える時間だった。トロイの進んだ道の先が行き止まりで良かった、そんなことを思いながらローレは息を整える。運動不足が祟った。そもそも運動は好きではない。

弾かれたように振り向いたトロイの顔は蒼白だった。何か、強迫観念に駆られているような、追い詰められた表情を携えている。肩で息をしているが、おそらく焦りを原因とした、動悸とともに生じるような息切れなのだろう。ただならぬその様相に気圧されるも、ペスジアは真剣な面持ちでトロイと目を合わせた。

「落ち着いてください。何があったか話せますか?一人で抱え込まないで、私たちと一緒に考えましょう。」

トロイの強ばった肩から力が抜ける。ペスジアの声に少し落ち着きを取り戻したのか、一度目を固く閉じて思考を切り替えるように頭を振った。胸に手を当て大きく息を吐き、言葉を探して視線を泳がせる。そして、覚悟を決めた瞳で二人を見た。ゆっくりと口を開く。


「……手伝ってもらって、いいっスか。」 


語られる、彼女がここまで消耗してしまっている事情。トロイ自身整理がついていないせいで、事実と感情が入り交じる、順序もでたらめな説明だった。分かりやすいとは言い難いそれを何とか話し終えると、トロイは一刻も早くここを抜けるために自分に力を貸してほしいと伝えた。事情を把握した二人は、少しの間も置かずに頷いた。


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《____オオキナタテモノにて》


ローレとペスジアがトロイに追いついた頃、オオキナタテモノにはラズとシャルルがいた。先程までのローレやペスジアのように、入った途端に閉まった鍵に頭を悩ませている。オオキナタテモノでもチイサナタテモノ同様扉が閉まると同時に鍵が閉まる仕様になっているようだ。


「……うーん……何度やっても開きません……。シャルル、絶対ふらふらどっか行っちゃダメですからね、一緒にいてください!!……別に怖くはないですが!離れないでくださいね」

「ふらふらって..……子供じゃねえんだから大丈夫だ。そっちこそ勝手に離れんなよ、何があるかわかんねえからな」


内装の把握をする隙もなく鳴り響いた音と、開かない扉。施錠されたことに間違いないと結論づけた二人は、このまま狼狽えていても仕方がないとひとまずこの空間を観察することにした。

オオキナタテモノもチイサナタテモノも、他と異なっているのはその大きさのみ。オオキナタテモノは規模としては立派な屋敷といっても過言ではないほどの大きさをしていた。……が、ここもこの一室しかないらしい。外観と比較すれば違和感があるが、向かいにある黒い扉の他に扉や廊下も見当たらないのだからそう考えるほかない。

第六話: テキスト

室内はモノトーンでまとめられており、二人は知る由もないが内装はチイサナタテモノのものとほとんど変わりなかった。……大きく異なるのは、二点。非常に異質な二点。また、そこからはある異常が導き出される。

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一つ目は、左側方の壁全面が鏡であること。そして、鏡の中心、その少し下の辺りからヒビが広がっている。つまり、割れている。

二つ目は、割れた鏡の手前の床に砕けた花瓶が転がっていること。それに活けられていたであろう、百合とかすみ草の造花も破片の周囲に落ちていた。潰されたような状態で。

この二点から導き出されるのは、鏡が人為的に……何者かの手によって割られたということ。……一体誰が、何のために。


「鏡……ここまで来るとさすがに気味が悪いな。花瓶で割ったのか……もしかして俺たち以外の人間が……?いや、それは考えすぎか。俺も少し頭を冷やさなくちゃな」

「すこし、嫌な想像をしてしまいますね……誰か…いるんでしょうか……」


突然この空間に隔離されたことにより、二人の警戒心は高まっている。ここは世界の欠片だから船員以外の人間はいないはずだと頭では分かっているが、想像せずにはいられなかった。他に、何かがいるかもしれない。元々割れていたのだろうか、ならば何故割れている必要があるのだろうか。もっとも、世界の欠片で起こる出来事ひとつひとつに理由を求めるのは無意味かもしれないが。


「ラズ。脚、気をつけろよ。怪我でもされたらかなわん」

「ラズは強いので大丈夫です!シャルルも気をつけてくださいね」


一通り部屋の確認を終えた二人だが、ここでこれ以上に出来ることは無さそうだ。施錠されたが故に来た道を戻ることも出来ない。……先に進むしかない。

「帰り道、無事に見つけられればいいのですけれど……」

慎重に扉に手をかけ、オオキナタテモノを後にした。


目の前には入り組んだ裏路地。さながら迷路のようだ。

直前に帰り道を憂いていたのが現実になってしまったらしいことにラズがげんなりしている。どこに行くべきかも分からないため、ラズの直感に従って進むことにした。


「ラズ、いつもは一人で探索行くのに誘うなんて珍しいな」

「そうですかね?うーん、気にしたことありませんでした……ラズはシャルルと一緒に居られて嬉しいですけど、シャルルは嫌でしたか?」

「………さあな」

「ふふふ」


……前面に出しすぎではないかと思うこともあるが、ラズからぶつけられる好意は心地いい。曖昧な返事を投げたが、きっとそれは悟られている。

シャルルの返答に、ラズは満足したように笑う。本当は、彼が今回シャルルを誘った理由は別にあった。だがそれは本人に伝えるべきではないだろう。

……ラズはシャルルを心配していた。シアターについての意見が割れ、シャルルと船長が衝突してしまったことを気に病んでいた。見たことのない光景で、そのショックも相まって話の内容はラズにはよく分からなかったが。

ただ、表情を曇らせ俯くシャルルが心配だった。

話を終えた途端普段の顔になった船長とは異なり、シャルルはあの後しばらく暗い顔のまま黙り込んでいた。余計な口を挟まない方がいいのか、それとも励ました方がいいのか分からず、悩んでいるうちにシャルルもいつも通りの顔になっていた。いや、きっといつも通りの顔を作っていた。心配させまいと振る舞うその姿が、ラズをいっそう心配させた。

……そのまま辿り着いた見知らぬ土地で、彼を一人にするのが怖かった。一人でぐるぐる考え込んで、暗い気持ちを普段の顔で上塗りして、まるで平気なように見せて。そうやって過ごしてしまうかもしれないことが何より怖かった。要するに、心配だった。

ラズがシャルルを誘ったことにはそんな心境が影響していた。一人で考え込むような時間を作らせなければいい。ラズの行動原理は単純だった。

「ねえシャルル、困ったことあったらラズにも教えてくださいね。」

「ん?おう、何かあればラズも頼れよ……急にどうした?」

「なんでもないです!」

叶うのなら、隠し事はしないでほしい。力になりたい。重荷になってはいけないから軽口を叩くようにしか言えないけれど、伝わっていれば何よりいい。短い会話だったが、密かにそんな思いを滲ませた。

愛する人のことはなんだって知りたい。愛する人のことは自らの手で守りたい。きっと、愛する人がいる誰もがそう思っている。

ラズはシャルルを横目に見ると、また笑った。


そうして歩いていくも、到着したのは行き止まり。だがこれまでの建物とは異なり、行き止まりの先には飾りでない扉のある建物が現れた。中に入ることが出来そうだ。


「どうしましょうか」

「……まァ、入るしかねえよな」


招かれているままに入るようで癪だが他に道もない。二人は、建物に入ることにした。扉を開き、足を踏み入れる。

中はタテモノとは異なり何の家具もない白い空間だった。とても快適に暮らせる空間ではないだろう、タテモノよりもかなり狭い印象を受ける。何のために存在している部屋なのだろうか。

……背後で鍵の閉まる音。どうやら、この部屋でも扉が閉まると同時に鍵もかかるらしい。

「……一方通行なのかもな」

「!!!それです!絶対そうですね!!さすがです!!!」

「はは、声でっけえ」

ならばタテモノのように、出口があるはずだ。あるはず、なのだが見当たらない。本当にただ白いだけの箱だ。

「でも……出口、ないですね。…出られません……どうしましょう……」

ラズが眉を下げてがっくりと項垂れる。先程までよりも状況が悪化しているような気がする。どうしようか、と言ったってどうしようもないのだ。

ふと、浮遊感を覚える。その直後、閉じていたはずの扉が独りでに開いた。開け放たれた先の景色を見るに、どうやら別の場所に出たようだ。

「っ……!何だこの臭いは……。」

「におい……?あまりラズにはわからないです……。」

扉が開いた途端襲い来る鼻を刺す悪臭。堪えられないほどではないが、シャルルは不快感に眉を寄せた。渋っていても無駄だ、安全を確認しつつ狭い部屋から出る。

二人が部屋を出ると、開いていた扉は再び自ら閉まっていった。鍵のかかる音はせず、その証拠に扉に手を掛けてみればそれはいとも簡単に開いた。……また中に入るよりは、進んだ方が収穫はあるだろう。この先に出口があると考えた方が妥当だ。

建物に入る前に頭上に広がっていた白は見る影もなく、見上げた先は無機質な何かで塞がれていた。船内のように天井がある。また、天井と同じ素材で出来た高い壁が様々に配置されている。それらは、狭い道幅と入り組んだ道を作り上げていた。……ここは地下、だろうか。


「少し、嫌な感じはしますが……大丈夫ですよね!一人じゃないので!ラズたちが力を合わせればどんな敵だって倒せてしまいますからね!」

「はは!そうだな、もし何かいたら俺らで倒しちまおうか。二人だもんな。……一緒に帰ろう。」


そんな話をしながら二人が迷路を進んでいくと、見覚えのある扉に辿り着いた。ついさっき出てきたものと全くの同型。……同じような部屋なのだろうか。

……ここは恐らく地下で、地上に上がるにはまた同じ手順を踏む必要がある。相談するようにちらとお互いの表情を伺うと、どちらともなく扉に手をかけた。進まなければ始まらない。意を決して中に入った。背後で鍵が閉まる。


真っ白の狭い空間であること、いや、そんな空間であったことには間違いない。元々の様相はきっとそうだったのだろう。下りてきたときのものとほとんど同じつくりをしている。だが、決定的に違う。部屋の床。鍵の閉まった扉の内側。

……白には、赤がよく映える。

床に点々と散る赤と、扉にべったりと残る血の跡。さほど時間は経っていないのかどちらもまだ乾ききってはいないようだ。

「……血だな。船員のじゃないといいが…。それか、やっぱ何かいんのか?」

「ううう、怪物に食べられた人の、とかだったらどうしましょう……そばにいてくださいね……」 

「大丈夫だ、なんかあったら守ってやるから。そのまま俺の後ろにいろよ」

生々しく残された痕跡に、ラズはしおしおと力なくシャルルの服の裾を摘んだ。その顔は不安に染まっている。

背筋を伸ばして凛と立つシャルルは、前を見据えたまま安心させるように声をかけた。守ってやる、と。……"愛する人は自らの手で守りたい"。シャルルもラズを愛しく思っている。


少し、重力を感じたかと思えば血に塗れた扉は二人の予想通りに開いた。外に出る。

何か見覚えのあるような景色だが、この世界の欠片内部ではどこから見た景色も似たり寄ったりだ。似てはいるが、おそらく別の道に出たのだろう。

建物に導かれるままその合間を進んでいく。ほとんど一本道のようだ。もしかしたらあの血痕の原因も分かるのかもしれない。それに、この足跡からすればきっと出口はそこにある。足元を見て、そんなことを考えながら歩みを進める。

……もし何かがいるのであれば、わざわざそちらに向かうのは失策だろう。だが、積もった雪に滲む赤と二人の進行方向とは真逆に先程の建物へと向かう一人分の足跡は、あの血の持ち主が外から来たことを示している。この道がハズレであったならシャルルたちが出てきた狭い建物から往復したような足跡が残っているはずだ。

……オオキナタテモノのような建物を経由していてそこも同様に一方通行であったとしたら、立てた仮説は成立せずこれも骨折り損になってしまう。そんな可能性ももちろんあるだろうが、だからといって進まない理由にはならない。続く赤を道標に、雪を踏みしめて歩いていく。


ようやく辿り着いた先には何もおらず、ここも行き止まりだった。この道に出口は無かったようだ。

行き止まりを形づくるのは鋭い棘が無数についている鉄線。いわゆる有刺鉄線だ。それ越しに外が見えているが、地面に打ち付けられた杭は背が高く有刺鉄線の間隔も狭いため、潜り抜けることや乗り越えることはかなり無茶をしない限りは難しいだろう。

有刺鉄線の真下にはこれまで同様血が滲んでおり、よく見ればその一部にもべったりとついている。……ああ、なるほど。


「通るにしてはトゲトゲで危ないですね。出るなと言われているみたいです……」

「これは触らない方がいいだろうな。……ここに出口は無かった、また地下に戻ろう。」

「またあそこ行くんですね……」

「まァ、怖くはないだろ。血は恐らく船員の誰かのものだ、大方ここから無理やり入ってきたってとこか。怪我は心配だが……一旦ハイルにでも聞いてみるか?」

「そうですけど……いえ!!結構です!!もしも違ったらラズはもう怖くてあの建物に入れませんから……船に戻ったらみんなに聞いてみましょう!」

「はは、確かに。それじゃあとっとと帰るか。」


有刺鉄線で阻まれた行き止まりを背に、二人は再び狭い建物へ戻り地下へ下りた。



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《____地下にて》


ローレとペスジア、そして地上で合流したトロイの三人もラズ達と同じく地下を彷徨っていた。

二人と合流した以後、トロイはいくらか落ち着きを取り戻したものの本調子ではないようで、未だその表情には焦りの色が見える。

……出口に近づいている気が一向にしない。募る疲労と焦燥感に自然と口数も減り、トロイは無言のまま狭い道を進んでいる。ローレはあれやこれやと推測を呟いており、ペスジアはそんな二人を気にかけていた。


僅かな情報でも欲しい今、突如鳴った音を警戒して避けている場合ではない。ギィ、と響いた物音を頼りに音の出処へと向かう。


「あ」

「あ!」


見覚えのある扉が開いている。見覚えのあるピンクと紫がこちらを見ている。広くも狭いこの地下で、五人は偶然出会った。


ラズがエンペラーと握手している間に、シャルルとローレは各々の探索結果を共有した。地下に来るまでは大方同じで、どちらも一度は地上に上がってハズレを引いていたらしい。ならば、行動を共にして入っていない扉の先に進むのが最善だろう。道に沿って歩いていく。

一歩後ろで俯くトロイを気にかけながら、シャルルは先程見た光景を三人に伝えた。思案顔をしたペスジアが聞き返す。


「怪我をした子がいるんですか?」

「恐らくな」

「……それなら出来るだけ早急に、全体へ連絡した方が良いと思います。きっと、シャルル君のお話からしてその子は一人きりですよね?一人で歩き回るよりも誰かと一緒の方が安心です。怪我が酷くて貧血なんて起こしてたら身動き取れないでしょうし……」

『そのためにも俺らが早く出ねえとな』


ラズはペスジアの言葉に違和感を覚え、首を傾げて続けた。シャルルも何か言いたげな顔をしている。


「……? ペスジア、全体に無線するのはだめなんですか?わざわざ歩き回って出口探さなくても良いような気がします……。今無線で確認しちゃって、ラズたちで迎えに行くのが一番じゃないですか?」

「動けない奴いるとしたら尚更だな。無線するか。」

シャルルが首元に手を添えると、それを制するようにトロイが重い口を開いた。


「無線、通じなかったんスよ。……上で散々試したんスけど、まったくダメで。」

シャルルを見据え、自身のチョーカーを数回指で叩く。少しサイズの大きい制服の袖で隠れていた手元が露わになった。

……トロイも怪我をしている?指先や手の平に、わずかだが痛々しい傷が見られる。ローレが言うに彼女らはシャルルたちが選んだ扉には入っていない。ならばどこか別の場所で有刺鉄線にでも触れたのだろうか。


「そうか、ここはそういう欠片なのかもな……。誰にかけたんだ?」

「鮫サンとスイです。ワタシ、二人のためにも、早く外に出ないと……」

「……何かあったのか?」

「……後からまとめて説明するんで、ひとまずここを抜けることを最優先で。……お願いします。」

トロイの真剣な眼差しに、きっとただ事ではないのだろうと頷いた。トロイは小さく頭を下げると再び考え込むように目を逸らした。


目的は固まった。出口を目指して、五人はさらに歩を進めた。



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《____医務室にて》


あの直後、角を曲がると新たな扉が現れた。五人で入れば、想像通りに地上に出た。その先はこれまでとは異なっており、五人がそれぞれ通ってきたタテモノにそっくりな室内だった。背後の扉は閉まったが、向かいに扉があったことと今回の探索での経験から、五人はここが出口なのだと理解し大きく息をついた。

また、最後に入った狭い部屋にはぽたぽたと赤が落ちていた。つまり、血の持ち主も五人と同じ道を辿り無事に脱出している。出口に辿り着いたこと、怪我人が無事に出られていたことに重ねて安堵した。

扉に手をかけ外に出れば、右手に小さくアハルディア47が見えた。出口は案外船の近くだったようだ。五人は船に戻り、ひとまず二手に分かれてそれぞれ怪我人の確認とトロイの事情を伝えるための船長の捜索を始めた。


そして、前者を請け負ったラズとシャルルは医務室を訪れた。手の甲で三回ほど扉を鳴らして医務室に入れば、ハイルともう一人。何やら真剣に話し込んでいるらしい。

扉が見える位置にいるハイルは二人の姿を目にすると、ぱっと表情を緩めて声をかけた。

「シャルルに、ラズ?どうかしたの?」

「すまん、取り込み中だったか?」

「ううん、お説教。気にしないで」

「あはは!メルト、げっそりしてますね!」

「うるさい……」

その両手に包帯を巻かれたメルトダウンは、既にこってり絞られたらしい。彼はハイルにはなかなか逆らえない。


「メルトお前、有刺鉄線掴んだんだろ?ふは、何いらねえ無茶してんだよ」

シャルルがからかい口調でメルトダウンの頭を撫でるように叩く。言い返す言葉もないらしく、眉をしかめて黙りこくっている。


「それで、どうかしたの?怪我とか体調不良?」

「いいえ、そういう訳ではないです!ラズたちもさっきまで迷路にいたので。ふふん、無事に抜けましたよ!そこで血の跡を見かけて……誰かが怪我をしたなら心配ですから、お見舞いにきました。そしたらメルトでしたね!」

「うん、それはメルトのだよ。二人とも怪我とかしてないならよかった。」

ラズの話に納得した様子でハイルは胸を撫で下ろす。怪我人はいない方が良い。当然だ。

「貧血で地下で倒れてたらどうしましょうって心配してたんです、みんな。無線通じないし早く出口見つけないとーって。出口はラズが見つけました!」

「そっか、ラズ凄いね」

にこやかに話す二人に、医務室は和やかな雰囲気で満たされる。

メルトダウンはいやに心配されていたことに居心地の悪さを覚えるものの、変わらず口を噤んでいる。顔にも口にも出していないが、強行突破せずとも内部に入ることは出来る、つまり自身の行動がただの徒労であったことにほんの少し落胆した。


ふと、何かに気がついたらしいハイルがわずかに眉を寄せる。

「……あれ、ラズ今無線通じないって言った?」

「?はい、言いました。ラズたちはかけてないんですけれど、トロイがそう言っていたので……」

「……おかしいな。私、メルトが無理矢理入っていったときも、その先でもずっと通話したままだったよ。怪我するからって止めたのに進んじゃうから、それで譲歩したの。」

目を見開くラズとシャルルを横目に、ハイルが続ける。

「無線は、欠片内部でも通じたよ。」

……トロイとハイル、二人の言い分が食い違った。


シャルルは腕を組み、思案する。

どちらかが嘘をついている?いや、ハイルはメルトダウンが証人であるし、通じないと訴えるトロイに嘘をついている様子は見られなかった。

どういうことなのか、トロイの"事情"を聞けば分かるのだろうか。お得意の、世界の欠片は不思議なところだから、という話だろうか。

シャルルが考えを巡らせていれば、突然目の前に画面が現れた。他の三人も同様だ。恐らく、全体への無線。船長からだ。


『こちら船長。みんな至急管制室に集まって。どうやらここには抜け出すのに苦労する地帯があるようだから、今すぐが難しい子は僕に折り返し連絡を。』


プツ。

顔を見合わせる。


「たぶん、ここで俺らの言ってた無線の話も聞けるだろうな。向かうか。」

「そうですね!行きましょう……メルト大丈夫ですか?ラズが手貸しましょうか?」

「介護されるほどじゃない!」


四人は医務室を後にした。



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《____管制室にて》


こうして朝礼のように招集されることは、通常業務においてはなかなかない。顔を並べる船員たちだが、状況を把握しているのはトロイの事情を事前に聞いていたペスジアとローレ、それと船長くらいだろう。

突然の招集だ、船長も言っていた通りこの世界の欠片には非常に厄介な迷路がある。数人の顔が見られないのも当然だろう。

いないのは、アインス、鮫、翠、ヘデラの四人。船長曰く、アインスとヘデラからは連絡が来ているらしい。つまり。


「……端的に言えば、鮫と翠が音信不通だ。」

ディスクを見た後、ハイルが船を下りて行方不明になった時とは訳が違う。平たく無感情に述べるならば、あれはハイル自ら望んだものであり彼女の気持ちに整理さえついたなら解決するものだった。

だが今回は違う。彼らは望んで姿を消したのではなく、何かに巻き込まれたと考えるのが妥当だ。無事に帰って来られるのかも分からない。したがって緊急事態とし、船員に共有するために招集した。


「そしてトロイは二人と行動を共にしていて、その一部始終を知っている。僕はついさっき知ったばかりだし、トロイ自身から聞いた方が伝わると思うから……あとは頼むね。」

「……はい。」


緊張した面持ちのトロイが一歩前に出る。一度深呼吸をして、ゆっくりと口を開いた。



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《____船外にて》


7⊃NB3R-J▆CKL9に到着した直後、鮫は抵抗する翠を引きずって歩いていた。同行するトロイは特に鮫を咎めることもしない。むしろ面白がっているような様子すら見られる。何故か、理由は簡単だ。何を隠そう、それを提案したのはトロイだった。


船を降りていく船員たちに紛れ、こっそり医務室にでも向かおうとしていた翠を見かけた鮫がその首根っこをとっ捕まえたのだ。言い争いをしていれば、通りかかったトロイが一言告げた。

「またやってるんスか?じゃあもう、鮫サンが直々に監視でも何でもすればいいじゃないですか」

一緒に行かせたらどうなるだろうか。そんな好奇心に由来する軽い言葉だった。……仲の悪い二人だけにしては、探索は成り立たないだろう。そして何より、この二人のやり取りは見ていて面白い。トロイが提案した責任を負って自分もついて行くと言えば、鮫は二つ返事で頷いた。


そうして、今に至る。

「いい加減離すのにゃ!トリィがいるならワガハイだってちゃんと行くのだ!!」

「はぁ〜?俺様が渋々お前を連れて行ってあげてるのわかってる?適当なところに捨ててやろうか?」

「鮫サーン、約束と違いますよ」

「まぁトロイが言うから仕方ないな!」

「お前が一人でどっか行くのだ……」

鮫が突然手を離せば、翠は抵抗していた反動でふらついた。そのことにまた、翠が噛み付くが鮫も負けじと応戦する。


「ワガハイ、トリィと二人がいいのだ」

「俺様だってトロイと二人がいいよ!!」

晴れて自由の身となった鮫と翠に両脇を固められている渦中のトロイは、なされるがままに左右に揺れている。目が回りそうだ。


そうこうしているうちに目的地として挙げていたオオキナタテモノに辿り着いた。錆びついた今にも崩れてしまいそうな外観に気後れするが、こんなところで足踏みしていても時間の無駄だ。三人は扉に手をかけ、足を踏み入れた。



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《____オオキナタテモノにて》


内部は、思っていたよりも綺麗だった。

第六話: テキスト

黒い家具に白い壁、さらにテーブル上に慎ましく咲く百合とかすみ草が上品な空間を作り出している。大きな建物の名に恥じず、かなり奥行があるように見える。部屋の奥にも同じようにしてテーブルと造花が置かれているようだ。

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第六話: 画像

「ピッカピカなのだ!!」

中を見た途端に翠は目を輝かせ、浮き足立って室内を駆け回る。

「ふうん……中は結構いいんじゃない?この白い肌と黒いホクロのコントラストが美しい俺様に似合う空間だな」

「そのままインテリアの一部になればいいのだ」

「猫ほんとうるさい」

「フフッ」

「トロイー!?」

酔いしれる鮫に向け冷たく吐き出すように呟く翠にトロイは思わず笑いを洩らす。この二人と一緒なら、どんな場所でも楽しく過ごせそうだ。

……奇妙な予感がしたのはどうやらトロイだけだったらしい。


思い思いに部屋の各所に散ったところで、入口には鍵がかけられた。突然の音にそちらを見た程度だったトロイとは対照的に翠は声をあげ、鮫は肩を跳ねさせていた。閉じ込められたことに対して三者三様に驚き動揺していたものの、扉が開かないことが分かると室内の探索を再開した。


「んー、まぁ奥も見てみよう。同じような部屋ばっかだな……」

鮫は部屋の左奥、広がるその先へと向かおうと足を進める。……が。


「イッタ〜!なにこれ壁?」

「えぇ……何してんスか……」

「にゃはははは!マヌケなのだ〜!たんこぶできたのかー?」

ゴツン、と響いた音に、ソファに座り込んで知らぬ間に休憩していたトロイがそちらへ向かう。造花に鼻を寄せ匂いがないことに首を傾げていた翠は、鮫の姿に指を指して笑い声をあげていた。かなり豪快にぶつかったらしく、鮫は鈍く痛む額をさすっている。

鮫が衝突したのは、透明な壁のようなもの。それを隔てて奥に部屋が広がっているように見える。トロイがその存在を確かめるように軽くノックしてみれば、それは軽い音を立てた。


「コレ……壁一面が鏡、っスかね?だから奥行あるように見えてるんじゃないスか?……でも、映ってないっスね。」

ソファや花は映っているのに。

「え、これ鏡?カッコイイ俺様の姿映ってないんだけど!勿体ないことするなあ」

「??鏡なのかー?でもワガハイたちがいないのだ」

自らの姿が映らないことに、不思議そうに鏡に触れる。再度ノックしてみたり頬をつけてみたりするも、何ら変わりない部屋がその先に広がっている。

「ちょ……スイ、そんなに触らない方が……」

「んにゃ?」

べったりと体を押しつけ鏡に存在をアピールしている翠に、一歩引いてその様子を見ていたトロイが声をかける。

「なんか、妙〜な感じがするんスよ、ね__」

目を見開く。


____どぷん。


翠の腕が、頭が、体が、鏡の中に呑み込まれる。あまりにも簡単に、水に沈むように、鏡の中へ。

「は……?」

なんとか逃れようと彼女が藻掻けば藻掻くほど、その意に反してずぶずぶと引きずり込まれていく。鮫とトロイは呆然と立ち尽くし、眼前のあまりに非現実的な光景にその場を動けずにいる。

「う、さめ、たすけっ……!」

「ッ煉音!!」

名前を呼ばれたことを契機に我に返った鮫が、咄嗟にその手を掴む。彼の腕も鏡は拒むことなく受け入れた。ひんやりと不気味に冷える生物に絡め取られているようで体中に悪寒が走る。顔を歪めながらも、鮫は手を伸ばそうとするトロイを振り返り声を荒らげた。

「トロイ!!来るな、そこにいて!!」

鬼気迫る様相に思わず手を引けば、その途端、鮫と翠は完全に呑み込まれた。一人残された部屋は、先程までとは一転静まり返っている。


……電灯が切れかけていたのか、室内がほんの一瞬暗転する。次の瞬間明るく照らされた室内、鏡の先には床に倒れ込んでいる二人が見えた。

……相変わらず、トロイの姿はない。この、鏡のような、透明の壁を越えて部屋の奥に進んだのだろうか。二人の姿が確認出来たのは良かったが、未だ彼女の気は動転している。鏡に駆け寄り呑み込まれないよう注意して、二人が気づくようにとそれを強く叩いた。


床に伏している翠を横目に鮫がゆっくりと起き上がり、こちらを見る。鮫と目が合う。……良かった、良かった、二人は無事だった。

透明な壁を隔てただけなのだろうか。確かに屋敷のような外観に反してこの部屋は狭く、その先に空間があると言われても納得できる。

きっとこれは鏡ではなく、反対側にも位置する部屋の奥を映しているだけの透明な壁だ。入り方は少々独特だったが。

トロイは二人へ無線をかけ状況を共有しようと試みるが、何度試しても無線が繋がることはなかった。姿が見えるにも関わらず連絡がつかないことに、愕然とする。


ようやく起き上がった翠は、トロイの姿を見るとぱっと顔を明るくした。が、無理な姿勢で倒れ込んだために足でも痛めたのかなかなか立ち上がれないようだ。度々走るのであろう痛みに顔を歪め、不安げに瞳を揺らしている。

……今すぐ抱きしめて安心させてあげたい、二人のところに行きたい。これが、この気味の悪い板が邪魔なんだ。これさえ取り除いてしまえば、この先には空間が続いているはずだ。そうとしか思えない。

トロイはおもむろに花瓶を手に取ると、一歩、二歩と壁に近づいた。ぱさりと音を立てて造花が落ちるが、トロイの目には入っていないようだ。その先にいる二人に被害が無いよう、二人が吸い込まれた辺りよりも手前……丁度中央の辺りで一度しっかりと握り直す。壁の先で何か伝えようとする鮫を一瞥し、花瓶を思い切り振り上げた。


砕ける。


暗転。


……トロイは、平静を失っていた。だからこんなにも向こう見ずで無茶な行動を取ってしまった。

すぐに明かりが灯る。肩で息をする。破片が足元に散らばっている。

ヒビの入った、透明な壁であったはずのそれに二人の姿はない。

第六話: テキスト

見えるのは、悲痛な面持ちで息を切らし、指先に赤を滲ませている自分の姿。先程までは全く映っていなかった自分の姿。……よく知っている、これは鏡だ。

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第六話: 画像

トロイはゆるゆると無数の破片が残る床にへたり込んだ。

取り返しのつかないことをしてしまった?無線も通じないのに、二人の安否はこれを通してしか分からなかったのに、唯一の連絡手段をみすみす絶ってしまった?自分が、二人の帰り道を奪った?

確かだったはずの足場が脆くも音を立てて崩れたような、そんな感覚に襲われる。全身に鼓動が響く。何も聞こえない。

自責の念に駆られ、トロイはひどく顔を歪めた。


……早く助けないと。

ゆらりと立ち上がり、扉へ向かう。鍵のかかった入口はやはり微塵も動かなかった。と、なれば。対面の黒い扉に手をかける。逸る気持ちに身を任せ、オオキナタテモノを飛び出した。


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《____管制室にて》


「……ワタシの過失っス。迂闊な行動が、二人を危険に晒しました。」

船員に向けて一連の出来事を簡潔に述べると、トロイは唇を噛み締め俯いた。

不測の事態は起こるものだ。気に病まなくていいよ。

事前に話した際、船長に掛けられた言葉。そう言われて切り替えられるほどトロイは器用に生きられなかった。


「鏡の先がどこに繋がっているのか、それは誰にも分からない。捜しに行くことすら難しいのが現状だ。」

もっとも、鏡があれど誰かをその先へ遣ることなど無かっただろう。それは被害を拡大させるだけだ。トロイが鏡を割ってしまったのは、そんな考えを持つ船長としては都合が良かったのかもしれない。


「話を聞くに、この世界の欠片は原則一方通行らしい。だから恐らく、その鏡を介して行き来出来るなんてことは無いと思う。僕らは二人が出口を見つけて戻ってくるのを待つことしかできない。……もしかしたら、この世界の欠片に似たような場所があるかもしれないけれど、わざわざ危険を冒そうなんて思わないで。全員、十分に気をつけて探索するように。」

二人のことを捜すのは難しい。危険を冒すのは賢い選択ではない。

そうした船長の言い分は理解出来るが、あまりに無感情ではないだろうか。

ルークは思わず零れそうになった反抗心に蓋をして目を伏せた。

分かっている、出来ることがないのは事実だ。


「話は以上だから、もう業務は終了してくれて構わないよ。お疲れ様。」

労いの言葉とともにいつものように笑顔を見せると、船長はその場を後にした。 


音信不通かつ行方不明であることに誰もが不安を抱え、二人の安否を心配している。動揺が広がる管制室からは、始業時に満ちていた未知の世界への不安と期待はとうの昔に消え失せていた。

ぱらぱらと管制室を去っていく船員たちを見届けたのち、一人管制室に残った彼女はこの世界の欠片のどこかにいるのであろう二人を思って瞼を閉じた。


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《____鏡の奥にて》


トロイが花瓶を振りかぶった途端、部屋が暗転した。再び明かりがつき、視界の点滅にようやく目が慣れたと思えば鏡は砕けトロイはいなくなっていた。……置かれた状況がここまで劇的に変化すると、思考を放棄したくなるのも仕方がないだろう。

ため息をつき眉間を軽く揉む。一度、頭を冷やす必要がある。

鮫は、未だ座り込み暗い顔をする翠に目をやると、彼女の傍へ歩み寄った。


「お前、怪我したの?……いや心配なんじゃなくて何かあったら俺様が責められるからさ。」

「……あし、痛いのだ」

「……んじゃ、そこでじっとしてなよ。俺様が勝手にいろいろ試してみるから」


ぐるりと部屋を見渡せば、やはりここは先程の部屋とほとんど変わりないように見える。違いと言えば家具や扉の位置が反転しているくらいのものだ。トロイが割ってしまうまでは、きっと互いの部屋の様子を映しているだけだったのだろう。原理は分からないが今は鏡に変わっている。


「フンッ!!ヌゥ!!……はぁ、だめか……」

鏡に変化した今、同じように呑み込まれるとは思えないが、何事も試してみなければ分からない。力一杯押してみるものの、特に何も怒らなかった。どうしたものかと頭を捻る。


「サメ、……ワガハイたち帰れないのか?……もうやなのだ、帰りたいのだ」

二人きりの静かな空間でなければ聴き逃してしまうような、か細い声が響く。不安げな表情で泣き言を零す翠に、鮫は数回瞬きをしたのち彼女の目の前で膝をついた。

「何弱音吐いてんの、俺様がいるだろ?そんな顔しなくていいよ、絶対どこかに出口はあるんだから。」

大きな手のひらで、翠の頭を乱暴に撫でた。

「弱虫猫ちゃんはずっとべそべそしてれば?」

「……うるさいのだ!お前より先に見つけるにゃ!」

「フン、やってみなよ」

元気を取り戻したらしい翠を見て、手のかかる奴だと独りごちた。

泣きそうに顔を歪め、弱気に話す翠を見ていると鮫はどこか調子が狂う。胸の奥がじくじくと痛むような気がするのだ。

威勢よく立ち上がった翠だが、やはり痛むのか足を庇って歩いている。心無しか顔色も悪い。怪我に加えて体調も優れないようだ。

いくら気に食わない相手とはいえ、鮫は船員のそんな姿に何も思わないほど冷血な人間ではない。仕方ないなと一言加え、手を貸した。


「……?ねえ猫、あれ向こうには無かったよね。ちょっと見てみよう」

「んにゃ?なんなのだソレ……」


ふと、鮫が"何か"を指し示した。鏡だと思い込んで対して注視していなかったため、先程は気がついていなかったのだろう。床の白とはまた異なった白を有する"何か"が落ちている。近づいて、拾い上げた。

第六話: テキスト

「なにこれ?紙と……メモリーカード?」

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第六話: 画像

鮫の手には、認識出来ない文字で埋め尽くされた紙が二枚。メモリーカードは翠が拾っていた。紙には左上だけ文字がなく他の何かがあったらしい痕跡が残っている。そこはノイズで塗り潰されており何が載っていたのか確認することは叶わなかった。


「……変なの。一応持って帰ろうか。…………猫?」

つい先程まで肩下にあった、鮫曰くクソデカ帽子が視界から消えている。半ば反射的に足元へ目を向ければ、翠が蹲って喉奥から絞り出したような呻き声をあげていた。息を呑む。

鮫は翠の症状に見覚えがあった。……度々現れる、彼女の"船酔い"だ。普段は船長から処方されているという薬を飲めば幾分か収まっていたが、恐らく今、翠はその薬を持っていない。船酔いじゃなかったのか、なんで船でもないこんな場所で。

____本ッ当に手がかかる!

鮫は足元に蹲り浅い呼吸を繰り返す翠に寄り添うように、その場に座り込んだ。


【二枚の紙とメモリーカードを入手しました。】


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第六話: テキスト

《なんでもできるネコ》


あるところに、リリーという少女がおりました。

リリーは生まれつき体が弱く、窓ごしにしか外の世界を見たことがありませんでした。楽しみは週に一度、遠くで漁師としてはたらくお父さんが送ってくれる海の写真だけ。見るたびに外の世界へのあこがれがつよくなりました。

もっと元気な体だったらなあ、そんなふうに思いふけるリリーの前に、ひょっこり顔を出したのは一匹の黒ネコさんでした。


黒ネコさんは言います。

「ワガハイはネコなのだ」

「おまえにおんがえししにきたのだ」

「お腹がペコペコで死にそうなとき、おまえのパパが魚をくれたおかげで助かったんだにゃ」

「おまえのパパは、ワガハイの命の恩人なのだ」

そして続けます。

「ワガハイは、そのお礼におまえの願いを叶えにきたのだ!」

「ワガハイなんでもできるからにゃ。ワガハイに不可能はないのだ!」

黒ネコさんは胸を張ってほこらしげにそう言いました。

リリーはすぐに答えます。

「海に連れて行ってほしいの、とっても遠いけれど」

「ずっと思ってたのよ、この目で本物の海を見たいって!」

黒ネコさんはにっこり笑ってリリーを見つめました。

「もちろん行けるにゃ!ほら、ワガハイの手をとるのだ。外を、世界を見に行くのだ!」


 その旅は、リリーにとって夢のような旅でした。

 はじめて間近で見る木の幹は、思っていたよりもごつごつしていました。はじめて見た本物のちょうちょは、思っていたよりずっときれいでした。はじめて夜更かしして見上げた星空は、知っている何よりもすてきでした。はじめてづくしの旅、楽しくないわけがありません!


 しかし、リリーは病弱でした。これまでおうちから出られなかったのは、リリーを生かすには仕方のないことだったのです。この旅で、無理に外へ出かけてしまったためにリリーの体は日に日に悪くなっていきます。

顔色が悪いリリーを見て、黒ネコさんはたずねます。もう引き返したほうがいいんじゃないか、と。咳が止まらないリリーを見て、黒ネコさんはたずねます。もう帰るべきじゃないのか、と。黒ネコさんは、何度も何度もたずねました。

けれどリリーは首を横にふるばかり。そして、海を見たいほんとうの理由を、涙とともにポロリとこぼしました。

「パパ、死んじゃった。だいすきだったけど死んじゃったの。だからわたし、パパがさいごに見てた景色を見たいのよ」

リリーのお父さんは、つい1ヶ月前、不幸にも海の事故で死んでしまっていたのです。リリーは、パパがだいすきでした。

黒ネコさんは、その言葉をきいて涙を流し、そして決意しました。

「ワガハイが海まで連れていくからにゃ、ぜったいぜったい、いっしょに見るのだ」

「だから、もうすこし頑張れるかにゃ?」

リリーははじめて、首を縦にふりました。


 ついに1人と1匹は海沿いの丘にたどりつきました。しかしリリーは、ぐったりと丘に立つ1本の木にもたれかかります。時間が、きてしまいました。

目の前に広がるのは一面の青。何度も何度も写真を通して夢見た景色。リリーの瞳は、きらめく海をうつして青く染まります。


「海って、こんなにも大きいのね」

はじめて、海を見ました。


「海って、こんなにも青いのね」

はじめて、世界を見ました。


「海って、安心するのね」

叶わないと思っていた願いでした。でも、叶った。

なんでもできるってほんとうなのね。


もう、体はすこしだって動かせないけれど、心はどこまでも自由でした。


リリーは目を閉じました。黒ネコさんも、リリーと手を重ねあわせ、目を閉じました。1人と1匹は、海を見ていました。ずっとずっと、自由で壮大な海を見ていました。そして、幸せな気持ちのまま、ながい眠りにつきました。


____おしまい。


あれ、起きてたね。……はは、ほんと好きなんだなこの本。

えへへー。だってね、あのね、このねこみたいになりたいんだもん!このねこみたいになんだってできて、自由で、なにしてたって楽しそうなー……

わかったわかった、今日はもうおやすみな?また明日、いつだって読んでやるから。

やくそくだよ?ゆ〜……ゆびきりげんまん!

おお!よく覚えてたなあ、偉い偉い!そうそう、ゆびきりげんまんだ。約束は果たすものだからな。約束したことはさ、全部叶うんだよ。なんだって。


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《____鏡の奥にて》


鮫は床に丸まって規則正しい寝息を立てる翠を見遣り、息をついた。隣で胡座をかいてじっと押し黙っている。

彼は普段から翠の"船酔い"の対処を一手に引き受けていた。手馴れたもので、なぜだか暗唱していた物語を言い聞かせながらその背を撫でれば翠の苦痛は幾分か和らぐ、らしい。きっとただの気休めだ。

薬のない今、これが通用するのかどうかは賭けだった。やはり服用した場合と比べれば発症時間は長かったものの、ひとまず落ち着いたようで安堵した。完全復活とはいかないのだろう、翠の顔色は未だに悪い。


状況は変わっていない。チョーカーで時刻を確認すれば、知らぬ間に夜中になっていた。……落ち着いたばかりの翠をわざわざ起こして迂闊に飛び出たとして、すぐに船に帰れる保証はない。平常を保ち、始業時間手前から探索に出ることに決めた。鮫もその場に寝転び、白い天井を見上げた。



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《____リビングにて》


駄目だ、分かりそうにない。

鮫と翠が音信不通だと聞いてから心は乱れっぱなしで一向に考えがまとまらない。気分転換に、たまには違う場所で作業しようとやってきたのがリビングだった。エスペランサはテーブルに忙しなく点滅を続ける探知機を置いて、ソファに沈み込んだ。

親友が音信不通。黙ってその帰りを待つしか出来ない。歯痒い現状に目を伏せた。情けなくも思えてくる自身の無力さに、固く拳を握りしめた。

きっと今、自分たちは大きな分岐点を迎えている。親友が何かに巻き込まれた。船長と船員の意見が衝突した。あんなに仲の良かった二人がぎこちなく目を逸らし合っていた。預かり知らぬところで事態は絶えず動いているらしい。自分は、何も知らないのだ。……みんなが気がついているのかは分からないが、エスペランサが知っているのは爆発を起こした誰かが船にいること、それだけだった。


ここで何が蠢いているんだろう。

一度芽生えた違和感も不信感も、全てが解明されなければきっと拭えない。拭った先、全てを知った先の未来は果たしてどんな景色なのだろう。果てのない疑心暗鬼に苛まれ続けるのかもしれない。はたまたより強固な絆が結ばれるのかもしれない。

考えることは山ほどある。だが、ただ、まずは何より親友の無事を願った。



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第六話: テキスト

《____鏡の奥にて》


始業時間、の少し前。硬い床で寝たせいか痛む節々に、鮫は顔を顰めた。家具のことは完全に忘れていたようで、ソファで寝ればよかったと些細な後悔をする。隣で丸くなる翠の体を揺すれば、彼女は緩慢に瞬きをして起き上がった。


「ふあ……にゃ?……にゃっ!?!!」

寝ぼけ眼で辺りを見回し、現状を把握するまで数秒。隣に鮫がいることに驚いたのか、かっと目を見開くと座ったまま器用に飛び退いた。介抱された事実など無かったかのように通常運転で鮫に敵意を向けている。鮫は翠の様子を見て腹を立てるが、毎度こうなるのは分かりきっているのだからいちいち腹を立てたって仕方がない。どうであれいつもの調子であることに安心した。

彼女はいつも、酷い"船酔い"の際はそののち眠りにつく。次に目が覚めた時には症状が出ている間のことは、記憶の底に封じ込めるようにしてすっかり忘れてしまうのだ。辛いことは全部忘れて、そうしていつもの翠になる。蹲るほど酷い症状だった今回も例外ではなく、それ故に今も鮫に向かって唸っているのだった。


鮫は胡座をかいたまま頬杖をつくと、記憶の確認のため声をかけた。


「……猫さぁ、現状はわかってる?何あったか覚えてる?」

「当たり前にゃ!鏡?の奥に来ちゃったのだ」

「覚えてんじゃん。じゃあさっさと帰るか、俺様早くトロイに会いたいし〜、猫のせいで余計に時間食ったし〜」

「??何の話なのだ……ワガハイのせいにするにゃ!魚は人のせいにするってやっぱりホントなのだ」

「は?何それ聞いたことないんだけど」


すっと立ち上がると、まだ確認していなかった恐らく出口と思われる扉へ向かう。翠も慌てて立ち上がれば、よたよたとその後をついていった。つんと服が張るような感覚がしてそちらを見ると、裾を摘まれていた。翠は目を逸らしている。

「なに、そんな怖いの?」

「……」

「……ま、いいけどさ。」

鮫はからかいの言葉をかけようとしてやめた。いくら気に食わないといっても、相手は不安に怯える年下の船員だ。ここで冷たくするのはいくら何でも性格が悪すぎる。

顔も性格も良くってその上有能なんて、俺様ってばほんと罪作りだな。

置かれた状況にさして動揺していないらしい鮫は、呑気にそんなことを考えながら扉に手をかけた。


隙間が生じた途端、肌を刺す冷気が勢いよく吹き込む。あまりの寒さに、鮫は開きかけた扉を無言で閉めた。明らかに入室時と外の様子が違う。

「さささささむ  さむかったのだ……」

「さ……寒かったな…………」

普段はいがみ合う二人の意見が珍しく合う。寒かった。船を降りたときとは段違いで寒かった。きっと部屋になだれ込んできた風の有無が原因だろう。風があるだけで体感気温はぐっと下がる。意気揚々と船に帰らんとしていた鮫のやる気はびゅうと音を立てて部屋を駆け巡った風により簡単に吹き消されてしまった。

「外出たくないんだけど……えぇ……」

「ワガハイはサメを風避けにするから大丈夫なのだ」

「この俺様が大人しく風避けなんかにされる訳ないじゃん。あーでも……行くしかないよなあ」

「んにゃ……」

渋々といった緩慢な動作で、今度こそ扉を開いた。二人はオオキナタテモノ……のようなどこかを後にした。


試しに一度という軽い気持ちで外に出たのは間違いだったかもしれない。寒さに耐えられなくなったらすぐにタテモノに戻ればいい、そんな考えは直後打ち砕かれた。開け放っていたはずの扉は知らぬ間に鍵がかけられ、退路は絶たれてしまっていた。

「ちょっと猫何閉めてんの!?」

「ワガハイじゃないのだ!!……っくしゅ!!」

「あーもう、最悪!誰の仕業だよ……うわ猫鼻水垂れてるじゃん!間抜け面〜」

翠は鼻を啜るとじとりと鮫を睨みつけた。睨みつけてはいるが、裾を摘むその手は離していない。寒さ故か宣言通り風避けにしているつもりなのか、鮫の背に張り付いていた。

"風があって寒い"程度の認識で、また、すぐに戻るつもりで出た外は、すぐ目の前すら危ういような大吹雪だった。酷い天気模様だ。吹き荒れる風のせいで降るというよりも真正面から打ち付けてくる雪は、少しずつしかし確実に二人の体温を奪っていた。状況を踏まえれば翠が鮫にぴったりと張り付いて進んでいるのも賢い選択かもしれない。こんな場所ではぐれてしまえば、合流するのは絶望的だ。


向かい風と、積もる雪に足を取られてなかなか進めない。進んでいる気がしない。入り組んでいるらしいことも腹が立つ。鮫は、正面から襲い来る雪に眉を顰め片目を閉じて前進する。こういう場合、何やらマイナスに考えて足を止めてしまう方が危険なのだと分かっていた。

勢いのまま突き進む鮫に対し、強がれどその実不安に満たされて弱気だった翠の心は折れかけていた。ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、必死に鮫の後に続く。鮫が雪を引き受けてくれていなければもっと前に諦めて泣き喚いていたかもしれない。

とはいえ、二人とも既に限界が近いことは確かだった。どこか休めるところはないものか。

ふと視線の先、雪の積もる地面から覗く黒を見つけた。大股で進めば、どうやらそこはほんの少し蓋が開いた大きなマンホールのようだ。少し指をかければ蓋を外すことも出来そうだ。


「猫!!ここ入ろう!!」

「聞こえないのだー!!好きにするにゃ!!!」


容赦なく吹きつける風の音が邪魔し、上手く声が拾えない。前を向いている限りは大声を上げても無駄らしく、鮫は翠の言葉を聞くとその重い蓋に手をかけた。力一杯動かせば、人一人ならば通れるほどの入口が現れた。翠を先に行かせると、それに続いて鮫もマンホールに入っていった。

マンホールに入ると、暫く梯子が続いていた。蓋をそこまで開けていないおかげでこの中に雪が入ってくる様子はない。梯子を完全に降りきれば、下水道のような空間に出た。ようやく、一息つく。


「……ちょっと休んだら、この道進んでみようか。もう上行きたくないし。」

「……」

生きようとする体が、自ずと震えだす。歯を鳴らす翠は声を出すのも気怠いほど憔悴しているのか、鮫の言葉に小さく頷くのみだった。

既に手先に感覚はない。変な色をしているような気もする。吹雪いていない地下であれど雪で濡れた衣服は容赦なく二人の体温を奪っていった。薄着な翠は尚更全身が冷え切っている。

このまま体を冷やし続ければ、いずれ手足が痺れて硬直し、眠気に襲われ、脈拍は低下し……と、最悪の場合も十分有り得る。

鮫は、息を乱して震える翠に考えていたよりも状況が悪いことを悟る。一刻も早く船に戻らなければならない。危機感が募る。

それならば、翠の回復を待つよりも。


「猫、俺様が背負ってってやるから乗って。」

返事を寄越す気力も噛み付く元気も無いらしく、ふらふらと大きな背中に倒れ込んだと思えば、翠はそのまま目を閉じた。意識はあるが、目を開けているのも辛いらしい。……これは、かなりまずいのではないか。

翠がしっかりと捕まっていることを確認する。手足の痺れからは目を背け、マンホールのさらに奥へと歩みを進めた。


ここは緩やかな坂になっているらしい。今の方向で進むとどんどん下っていくことになる。どこに行けばいいのか分かるはずもないのだから、直感に頼って進むしかない。もっと近い道があるのかもしれないが、探している暇などない。あまり振動を与えないよう、早足で進んでいく。


「げ。」

前へ前へとひたすら歩き続ければ、真っ直ぐに続いていた道が突如途絶えていた。行き止まりではあるまいかという気持ちから非難がましい声が漏れたが、その先にも道はあった。

一度、背中の翠を見る。ガタガタと震えているが、体温が少し上昇してきたのか顔には少しだけ生気が戻ってきた。多少は持ち直したらしい。

底の見えない階段。どうやら、暗闇の先にもそれは続いているようだ。ここまで来て引き返せやしないのだ、ならばとことん進んでやろう。意を決して、足を踏み出した。

下りていく。下りていく。


下りて




上って


上っている?


上っている。


階段の先、開けた空間には光が降り注いでいる。そこには梯子が取り付けられていた。まさか、同じ場所に戻ってきたのだろうか。血の気が引く。

いや。

同じ場所ではない。

梯子の先、大きなマンホールの蓋は完全に開いていた。さすがに翠の筋力だけを頼りに背負ったまま上るのは気が引けた。一度降ろし、動けるかどうか確認する。よっぽどましになったのか、翠はこくりと頷いた。万が一力が入らず落ちても大丈夫なよう、鮫はここでも翠を先に行かせる。かん、かん、と一歩ずつ踏みしめ出た先に、吹雪は無かった。


……不思議な体験をした。


梯子を上りきれば、ただ雪が積もっているだけの土地に出た。何やら建物で囲まれた入り組んだ裏路地だ。

多少動けたところで、翠はそもそも"船酔い"のせいで体調を崩しているのだ。二人とも手足は凍ったように冷えている。既に限界を迎えてしまっていた翠の手前、気力を振り絞って進むしか無かった鮫もかなり消耗している。これ以上動き回るよりも。

目の前の、棘だらけの鉄線に目を向けた。



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《____船周辺にて》


『みんな!!サメとネリネが帰ってきた!!!』

脈絡なくウェルテルからかかってきた無線に応答すれば、ウェルテルは大声でそう報告した。翠を背負って、鮫がゆっくりとこちらへ歩いてくる姿を確認した。


船にいた船員がすぐにウェルテルの言う方へ向かえば、二人の姿が確認できた。トロイが一目散に走り寄る。


「鮫サン、スイ、……よかったッ………」

「……トロイ、」


鮫の顔を見た途端泣き出した彼女に声をかけようとするが、喉からは掠れた声しか出ず名前を呼ぶので精一杯だった。トロイの顔を見て安心したのか鮫はその場に崩れ落ち、背中の翠もまた地面に倒れ込む。ギリギリの理性を保ってなんとかここまで帰ってきたらしいことに、また涙した。

続けて現れたエスペランサと船長は二人がかりで鮫の肩を持ち、ルークは翠を抱きかかえた。


そのまま医務室に向かい、手当を施す。一時は酷く低下していた体温も、適切な処置のおかげで持ち直してきたらしい。備え付けのベッドで眠る二人を見る。鮫の両手に巻かれた包帯は、だらだらと血を流していた先程までの彼の手を思い出させた。トロイは冷えきった大きな手と小さな手を握り、触れられることに心の底から安堵した。



しばらくして、翠はゆっくりとその目を開いた。

「……スー、起きたんだ。おかえり。」

「ルカ……、ルカ!」

ぼやけた視界に立つルークを見る。表情に変わりはないが、その瞳は心配していたと語っていた。心が温まるような心地がする。一度処置を受けて暖かい場で眠ったおかげで、体はかなり回復したようだ。翠は起き上がってルークに抱きつこうとしたが制された。

横の鮫は、未だ目覚めていないらしい。静かに眠る姿は違和感がある。……たくさん、助けられたような気がする。


「スー、8番にお礼言わなきゃだめだよ。……相当無茶したらしいから。」

「……分かってるのだ、そのくらい」

顔を背ける翠に、ルークの表情が和らいだ。彼は少し俯いて、本心を零す。

「……音信不通って聞いた時、…不安だった。すごく。……無事で良かった。」

「……ルカ、泣いてるのかー?」

「馬鹿言わないで、泣いてないから」

「にゃはは!」

からからと笑う翠はどこまでもいつも通りだった。

捜しに行けない無力さに拳を握ったのが遠い昔のようで、彼女の笑顔で心が晴れた。


ふと、翠が思い出したようにある物を取り出した。

「ルカ、これ何か、知ってるかー?」

「……メモリーカード?」

ルークの眉が僅かに動く。

「なのだ!探索で拾って、これと紙も二枚あったのだ!何なのか分かるかにゃ?」

「……心当たりはあるよ。でも、多分あんまりいいものじゃない。」

「?」

ルークは直感的に、これがシアターで再生できるものだと悟った。ここにもあるのかと、引きずり出された悩みの種にほんの少しだけ顔を顰めた。隠しておくべきなのだろうか。中身が"誰のもの"か分からない以上、迂闊に手を出すべきではないのは確かだが。


「ワガハイ、……仲間はずれみたいで寂しいのだ」

合わせていた目を逸らしてそっと呟く翠に、言い知れない後ろめたさのようなものを感じる。隠し事であることには間違いないし、騙していたと言われてもそれは事実だ。言葉に詰まる。


「……ルークは知ってる訳?みんなが変な理由。」

翠のベッドの奥から声が飛ぶ。そちらに目をやれば、退屈そうに口を尖らせて、鮫はルークを見据えていた。知らぬ間に目を覚ましていたらしい。これが一緒にあった紙、そう言って二枚の紙をベッドに置いた。


「みーんな知ってることを知らない、分からないって結構キツいんだよね。知らない奴もいるんだろうけどさ。」


二人の視線を一身に浴び、足が竦む。……逃れられない。

観念したようにルークは口を開いた。


「…………それさ、……シアターで再生できるんだ」

「んにゃ、バグのやつってことかー?」

「………たぶん船員の誰かの……信じられるか分からないけど、過去みたいなのが。」

「……過去?何それ、みんなここで生まれたんじゃないの?」

「知らないよそんなの、僕も分からない。全然、何も分からないから、一人でずっと、……」

八つ当たり紛いのことをしてしまっているのは分かっていた。

「こんな、疑ってるような話、誰にも言えないしさ、……疑いたくなんてないのに一回そうやって思っちゃったら、全部不審に見えてきて、 そんな自分がまた、嫌で…………」

尻すぼみに声は小さくなる。抱え込んでいた悩みは堰を切って溢れ出し、止まりそうになかった。途切れ途切れに口をついて出ていく言葉に気がついて、意識的に口を閉ざした時には既にすべてを吐露していた。


「ルカが悩んでるの、ワガハイ知らなかったにゃ……ごめん。ルカ、ワガハイルカのこと一人にしたくないのだ」

「……結局中身、見ないと分かんないって話?やっぱ俺様たちで見れば全部解決じゃん。俺様たちは何が起きてるか分かるしルークの悩みも分け合えるし。いいじゃん手っ取り早くてさ!」

「それが!……それが、誰のだったとしても、きっと辛い目に遭う。今まで通りじゃいられない、いいことなんてッ……でも、自分のことを知れるのは、いいことなのかな………………」


自分の知らない自分がいるかもしれないことに、ディスクの存在を知って以降ずっと恐怖を抱いてきた。それと同時に、自分のことを知らないのかもしれないという事実にも怯えてきた。

知らないままでいること、受け入れること、どちらでも恐ろしい。ずっと悩んできた。答えは出ない。


「どの道何も知らないままここにいたって、今まで通りじゃいられないでしょ。……俺様は見るよ、誰の何だか知らないけど。」

「にゃー、……待てサメ、ワガハイも行くにゃ!これはお前には渡さないのだ!……ワガハイ、難しいこと、わかんないのだ。でもルカが悲しいのがワガハイは悲しいのだ。んにゃ、んん……?何言ってるか分からなくなってきたのだ、……でもワガハイ、怖いから、ルカも来てくれないかにゃ……」


鮫ははっきり言い捨てベッドを降り、翠はそんな鮫に声をかけた。話を聞いたときに腹は決まっていたらしく、おそらく止めても無駄だろう。

翠は一人俯くルークの顔を覗き込んで、伝わるようにと言葉を探しながらありのままの思いを告げる。難しいことは分からないから、説明なんてまどろっこしいことは省いてしまって真っ直ぐに感情で動けばいい。普段はそんな風に行動を起こす翠が、頭を捻って自分の思いを伝えようとする。紛れもなく、それは誠意だった。

ルークが本心で零した言葉たちに、真摯に本心で返そうとした。気持ちを説明しようとした。結果、思考が絡まりいつもと大して変わらなかったとしても、挑戦しようとしたその姿に誠意は現れるのだ。


普段であれば否応なしに手を引いていくような翠が恐る恐るといった様子でこちらを覗き込んでいる。気にしてくれていることに、少し心が安らいだ。

鮫と翠の、何も知らない二人だけで見せるくらいなら。もしも自分のものであれば一人では受け止めきれないだろうし、それは翠や鮫にだっていえるのだ。


ルークがひとつ頷くと、翠はぱっと笑顔を見せた。

ベッドを降りようとする翠に手を貸すと、エスコートしているようだと言われる。そんなつもりじゃないと、咄嗟に離しそうになった。



シアターに向かおうと医務室を出れば、そのすぐ前でトロイとエスペランサに出会った。

「トロイにエス!心配して来てくれたの?」

「めーくん!良かった、もう歩けるんだ。僕は今来たところなんだけど、とーちゃんが勇気出ないとか何とか言って医務室の辺りうろう」

「エスペランササン!!!!普通言わないでしょそういうのは!」 

エスペランサは鮫の姿を目にして朗らかに笑うと、笑顔のままにそこで見たことを話し始める。トロイが慌てて声をあげて遮れば、鮫はこれ以上ないほどの満面の笑みを見せた。苦い顔をするトロイだが、引け目故か抵抗はしない。されるがままに抱き締められている。

その様に翠が噛みつき、鮫が舌を出す。日常風景だ。


「しばらく医務室で療養でもするのかと思ってたんスけど……何処か行くんスか?揃いも揃って」

「探索でよく分かんない物手に入れたから、中身確認しようと思って。……たぶん、シャルルが何か言ってたやつと関係してる。」

二人の表情が変わる。

エスペランサとトロイは、船内の違和感に気が付きつつも見ないふりをしていた、または違和感の原因を知る機会が無かった。何も知らない自分や何かを隠している船員に言いようのない嫌気を感じていたのは彼らも同じだ。きっとディスクのことを、過去のことを知らない船員は皆がそう思っている。

自分たちもついて行くと言って、五人でシアターに向かうことにした。


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《____シアターにて》


ルークが皆に確認する。

「本当に、いい?……僕は…まだ迷ってるけど。」

「……いいよルーク、いずれ見なきゃいけないんだ。その機会が僕らは今だって、それだけだよ。」

「…………」

エスペランサの言葉に顔を曇らせるが、ルークもようやく覚悟を決めた。映像が始まる。

第六話: テキスト

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____開演____



【××の離別/××の別離】


ほんの少しでいいんだ。

そんな奴がいたってこと、頭の片隅に留めていてくれればそれでいい。

____再会を必ず。

なんて、酷い嘘をついた兄をどうか許してはくれないだろうか。



どこにでもいる普通の家族だった。小さい店を構えて組紐を用いた装飾品を売って、そうして細細と暮らしていた。国は何やら戦争をしているらしいが、それはこんな辺境には縁遠い話だ。詳しいことはよく知らなかった。みんな、平和な日常を生きていた。

家は狭かったし布団もうっすい煎餅布団だったけど、狭い寝室に家族四人で雑魚寝するような生活が好きだった。絵本を読み聞かせていた頃、工房のように様変わりした父の部屋で両親がせっせと編むのを兄妹並んで見るのが好きだった。思い返せば、きっとあんな何気ない日々こそ大切で幸せだったのだろう。

……思い出、今のお前は覚えてないだろうから俺様が話して聞かせるよ。


「【漢林】兄サマ、売ってもらえてよかったね。人望かな」

「まぁ俺様にかかればこんなもんだよ」

「あはは、自信満々!私も兄サマみたいになりたかったなあ」

第六話: テキスト

「【鈴杏】がなりたいのは《なんでもできるネコ》だろ?」  
「あ、もう!……うう、恥ずかしいなあ、昔の話だから…………」

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第六話: 画像

あの日は確か、母に頼まれて外れの市に行った。急ぎの品の材料が足りなかったようで、こんな夜中に馴染みの店を訪ねた。無理を言って売ってもらって、その帰路だ。兄妹二人、雨が降れば裾を汚すような土道に影を落として歩く。街をぐるりと囲む塀の外には街灯もなく、辺りを照らすのは月明かりのみ。やけに明るい満月は俺様たちにスポットライトを当てているようで気分が良かった。

……まぁ、それはスポットライトなんかじゃなくて獲物の姿を捉える懐中電灯だったようだけど。

治安が悪いとは噂程度に聞いていた。近年、同年代の子供がこの街から数人失踪しているのも知っていた。満月に照らされていたせいで、人通りの無い塀の外を歩いていたせいで、兄妹二人きりであることを連中に知らしめていたらしい。突然現れ取り抑えようとする大人たちに抵抗して手を出せば背後から頭部を強く殴られた。逃げろ、と伝えようにも喉からは掠れた空気が漏れるばかり。……薄れゆく意識の中、顔を真っ青にして震え、無抵抗に肩を抱かれている妹を見た。


目を覚ました。重い瞼を引き上げて辺りを見る。見知らぬ、石に囲まれた無機質な部屋だ。響く痛みに手をやれば、奴らに殴られた頭部には手当がされていた。殴っておいて手当だなんて、何のつもりだ。わざわざ手当するくらいなら殴るなよ。

「兄サマ!!起きたんだ、よかった、私何も出来なくて、……ごめんなさい…………」

「鈴杏!謝らなくていいよ、ほらもう泣くなって。アイツらには何もされてない?」

「うん、たぶん……私も今起きたところだから、分かんない……私たちどうなるの、ここって何なの……怖いよ…もう帰りたい…兄サマ……」

「大丈夫だ、俺様がいるんだから。鈴杏のことは必ず守る。約束する。兄サマ、約束破ったことなんてないだろ?」

ぼろぼろと涙を零す妹の小さな体を抱きしめ、その頭を撫でる。誘拐されたと分かっていて離れ離れ……なんて事態にならなくて良かった。傍にいれば守れる。


二人とも服は無地の物に着替えさせられていたが、持ち物は奪われていなかったようだ。適当に放り投げたのだろう、誘拐時の持ち物は部屋のあちこちに散乱している。

誘拐され、拘束されている非現実的な状況を改めて自覚させるように片足には頑丈な足枷がつけられている。足枷から伸びる鎖は壁まで続いており、少し身動ぎするだけでジャラジャラと音を立てた。明らかな異物感と、簡単には逃げられない事実に眉を顰める。

……ここは一体何なんだ。石に紛れて見えにくいが、ここの壁や床には乾いた血痕と無数の引っ掻き傷やら堅いもの……足枷だろうか、それを打ちつけたような傷やらが残されていた。足枷なんてつけられているんだからここがろくな場所でないのは明白だ。鈴杏は唇を噛み、瞳を揺らして顔を不安に染めている。ここに両親はいないのだ、妹を守れるのは自分だけだと覚悟を決めた。怯える妹を元気づけようと二人寄り添って話をした。


どのくらい経っただろうか。突然扉が開いたと思うと、その奥から白衣に身を包んだ職員を名乗る人間が現れた。慣れたように鈴杏の足枷を外すとその腕を掴んで無理矢理立ち上がらせる。


「行くぞ」

「い、いや、やだやだやだ、行きたくないぃ……」

「おい!離せよ!!やめろ、……ッ俺が、代わりに俺様が行くから早く離せ!!鈴杏に手ぇ出したらぶっ殺すぞ!!」

「…………」


じとりとこちらを見る感情のない瞳。背筋を汗が伝う。怖気付くな。決めたんだ、俺様が鈴杏を守るって。そのためなら何だってしてやるよ。

挑発するように、また、妹に自分は大丈夫だと伝えるために、口角を引き上げる。職員は何やら機器を取り出して一言二言話すと、鈴杏の足枷を付け直してこちらを見た。

……連れられ、部屋を出る際、泣きじゃくる妹へ笑いかけた。戻って来られないのかもしれないから、思い出されるのなら笑顔がいい。必死に手を伸ばす鈴杏の姿は、扉に遮られて消えた。


職員に連れられ廊下を進めば、至る所から叫び声がした。強がってみても人並みに恐怖を感じるのだ。処刑台へ続く階段をひとつひとつ踏みしめているようで、冷や汗も震えも情けないながら止まりそうになかった。遂にある部屋に通され、拘束される。


……結果から言えば、ここは研究施設だったようだ。

訳も分からないままに左の腹を裂かれ激痛に叫声をあげるが、奴らはまるで聞こえていないかのように観察を続けた。

第六話: テキスト

自然と呼吸は浅くなり生理的な涙が視界を覆う。頭がおかしくなりそうだ。

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第六話: 画像

防護服に身を包んだ誰かは、どくどく溢れ出る血に構うことなく傷に触れると小さく頷いた。大きく切りつけた先程とは異なり、少しずつその範囲を広げていくように、破るように、じわじわと傷口を抉られる。その手に躊躇いはない。絶え間なく襲い来る激痛。痛い。痛い。痛い。

失血で正常な思考なんて出来ない上に痛みに脳が支配され、序盤についていた悪態などとっくに失われた。ただ叫び声をあげるだけに成り下がる。

……一思いに死んだ方が楽になれる、死んでしまいたい。そう思ってしまったのも、きっと痛みから来た気の迷いだ。家族を忘れてそんな風に考えるなんて、あるはずない、あるはずないんだ。絶対に二人で生きて帰ってやる。鈴杏だけが、支えだった。



その後、長らくこの施設で過ごしてきて知ったがこれは負荷試験と呼ばれる類の実験らしい。また、俺様に対しては負荷試験に伴って生じた外傷に対する臨床試験も同時に行われた。つまり、痛めつけられては得体の知れない薬を投与され経過を観察される。治ればまた負荷試験に回され、薬を起因とする異常が出れば実験は継続、データ収集のため適切な治療は施されずに放置される。生体反応はすべて実験の成果として紙媒体の個人カルテに記録され、実験の際職員は必ずそのカルテを手にしていた。

また、この国のする戦争は民族同士の諍いが原因らしい。名目上相手方の民族をこの実験には使わなければならないようで、実験体は皆無理矢理髪を染められた。この国の民は髪が黒いのが特徴だったから、その特徴を消すために。……黙認する国に反吐が出る。

辺境の郊外のそのまた奥、国の息がかかった施設に法や倫理は存在しない。終わりのない地獄の始まりだった。



……最初の負荷試験の後、恐らくそのまま意識を失ったのだろう。次に目を覚ましたときには足枷に繋がれていた。持ち物が散乱している、紛れもなく先程の部屋だ。ひどく消耗した体力と、指先ひとつ動かそうものなら全身に痛みが走った。隙あらば意識を奪おうとする激痛に耐え、守ると誓った小さな姿を探すがその姿は見当たらない。

おかしい。

ここが最初の部屋なら、鈴杏はいなければおかしいんだ。

喉の奥が締め付けられているようだ。息が上手く出来ない。

食事に出ているだとか抜け出しただとかそんな現実逃避は到底出来ず、嫌でも悟ってしまう。

……ああ、守れなかった。

臆病で泣き虫な可愛い妹。取り残された彼女の心情など考えもしなかった。残された部屋で何を思ったのだろう。残された部屋に兄を連れて行ったような職員がまた訪れた時、きっと不安だっただろう。絶望しただろう。たった一人、痛いのが苦手で転べば泣いていたような妹が、誰に縋ることも出来ずにあの長い廊下を歩くのはどれほどの苦痛なのだろう。

ただ守ろうと、そうして取った行動は妹の精神に負担を与えただけだった。何にもならなかった。無駄な足掻きで余計に妹を追い詰めた。

今さっき与えられたあの苦しみを鈴杏が受けなくて済んだのは良かったが、その代わりに何をされているのか皆目検討もつかない。もしかしたら負荷試験の方が数倍楽なものだったかもしれない。

ごめんな鈴杏。今、お前はどこにいるんだ。

この場にいない妹を思って、まるで動かない体に求められるままそっと目を閉じた。


鈴杏のいない部屋に何度帰ってきただろう。たった数日の間に、幾つの傷を負ったのだろう。もう数えるのも考えるのも億劫で、実験のない間は死んだように眠っていた。

いくら現実から逃げたくても、生かされるのだ。使い物にならなくなれば廃棄するような消耗品とはいえ、昨今は手に入りにくいらしい。勿論これは実験体の人間の話だ。……人間、同じ人間のはずなのに、どうしてこんなことが出来るんだろうな。


扉が開く。今日は、鉄で肩を焼かれた。

扉が開く。今日は、膿んだ傷跡を抉られた。

扉が開く。今日は、打たれた薬のせいで高熱に魘された。

扉が開く。今日は、皮膚を剥がれた。

扉が開く。今日は、また腹を裂かれた。

扉が開く。今日は、今日は、今日は、今日は、今日は、今日は。


……鈴杏のいない数日で、扉の開く音が恐ろしくなった。それは非道な実験の始まりを告げる鐘で、拷問の合図だったから。折れそうになる心の支えはやっぱり家族で、死んだと聞かされていないことに望みを託してなんとかなんとか生きてきた。


ああまた、扉が開く。


きっと連れ出されるのだ、と開いた扉に目を向けた。いつもならズカズカと入り込んでくる連中が見当たらず、扉はすぐに閉められる。虚ろな瞳に光が灯る。

連中の代わりに、頭に包帯を巻いた愛しい妹が帰ってきた。

痛みも忘れ、転がるように駆け寄る。足枷のことは頭から抜けていて、一度床に膝を打ち付けたりもした。

「鈴杏!!良かったお前、無事でッ……」

目に見える怪我は頭の他に見当たらない。小さな体を、力の入らない腕で抱きしめた。涙が溢れる。良かった、良かった、良かった。生きていた。妹が帰ってきた!

「……鈴杏?」

応答がない。腕を解き、肩に手を置いて鈴杏と目を合わせる。……開いている、ちゃんと兄のことを見ている。何だ、なんだこの違和感は。何かがおかしい。何がおかしい?

鈴杏は兄のことをじっと見つめると、口を開いた。


「あ、ぅー…う……あ!」

第六話: テキスト

目の前の兄にじゃれつくように、妹はにっこりと笑った。

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第六話: 画像

……鈴杏が受けたのは、脳の一部を摘出する手術。この時は摘出されただけの下準備の段階で、本命は脳の一部が摘出された状態での負荷試験だった。これは本来俺様が受ける予定だった実験で、あの時庇ったせいで鈴杏はこの実験を受ける羽目になった、らしい。

手術の影響で彼女は白痴となってしまった。一時的に発語もままならない状態に陥っているようで、意思の疎通は困難だった。


無邪気に笑う妹に、なんて世界は残酷なんだと声を上げて笑った。

ぼたぼたと零れる涙を拭おうとこちらに向かって手を伸ばす、そんな健気な姿に唇を強く噛み締める。その小さな小さな体を再び抱きしめた。



鈴杏が生きてここにいる。それだけで、いつ実験に連れ出されるのか怯えるだけの毎日は一変した。

実験の合間、二人とも動く気力のあるときは絵本の読み聞かせをしてやった。鈴杏が四歳かそのくらいの頃、心底気に入った絵本……《なんでもできるネコ》を散々読み聞かせていたから内容は頭に入っている。一文でも声に出せば、続きは口をついて出るのだ。興味深そうに聞き入る姿は、記憶の中の幼い妹そのものだった。

「んにゃ………に、あま!」

「惜しいな。にいさま、だぞ。鈴杏。」

読み聞かせを通じて、鈴杏は少しずつ言葉を取り戻している。……口調はなんだか、登場する猫に引っ張られているが。鈴杏と猫が混ざったような話し方で定着してしまったようだ。


記憶力が低下しているなら、記憶を引き出す触媒があればいい。家族を思い出すきっかけとなる何かを妹に遺そう。それなら、家族の思い出の品が良いだろうな。都合良くここには材料が揃っている。

俺様たちは実験体ではなく、代々受け継ぐ組紐職人の【姚】一族が一人なのだ。そうして、装飾品の制作を始めたりもした。そもそも動けないことの方が多いから、こんな簡単な物にも時間がかかってしまう。もどかしい。


扉が開く。今日は、足をやすりで削られた。まともに歩けず、鈴杏を心配させた。

扉が開く。今日は、鈴杏だけが連れ出された。腹に包帯を巻いて帰ってきた。

扉が開く。今日は、薬のせいで全身に発疹ができた。鈴杏は腹の包帯を増やして帰ってきた。明らかに、妹の体が軽くなっていた。

扉が開く。今日は、背中に大きな痣が出来た。鈴杏がにいさま、と言えた。意思の疎通が出来た。

扉が開く。今日は、鈴杏がずっと吐いていた。薬の副作用らしい。彼女が発作的に痛みに蹲ることが増えた。

扉が開く。今日は、息が出来なくなるまで肺を圧迫された。しばらくまともな呼吸が出来なかった。

扉が開く。今日は、鈴杏が顔に包帯を巻いて帰ってきた。包帯の下、右目があるはずのそこは凹んでいた。

扉が開く。今日は、今日は、今日は、今日は、今日は、今日は、今日は。


日々増えていく傷と痛み。それを乗り越えて生きていられたのは、お互いのおかげだった。鈴杏はぼんやりとだが家族のことも思い出せたし、言葉も話せる。ただ、連れ出される度に包帯を増やして帰る鈴杏は凡そ17歳とは思えないほど軽かった。人間でいられる瀬戸際に立っていると、そう言われたらしい。

……翌日、鈴杏を連れ出す職員が手にしていたカルテを盗み見た。一瞬だけだったが、その顔写真にバツが打たれているのを見て確信した。このままでは、妹は近々廃棄される。


幸い今日は実験が無いらしい。いつかの脱出のために、実験に向かう際、その恐怖からぶれる視界を無理矢理定めて長い廊下をじっと観察していた。廊下に脱出口は見当たらなかった。

石に囲まれた部屋の一角に、くぐり抜けられそうな通気口を見つけた。……足枷をつけられてしまえば脱出は難しい。廃棄処分がいつなのかも分からない。次に鈴杏が帰ってきた時が勝負だ。


扉が開く。鈴杏に足枷をつけようとする職員の頭を思い切り殴った。倒れ込む職員を続けて殴る。無心で殴る。

当たり所が悪かったのか良かったのか、数回殴れば職員は気を失った。鈴杏は訳も分からず怯えている。……良かった、動けるみたいだ。


「鈴杏。」

「……なあに、兄サマ」

「これ、俺様が作ったの。鈴杏にはこの帽子をあげる。俺様は耳飾り。ね、お揃い」

「!ありがとうなのだ!!……久しぶりに見たにゃ、組紐……」

ただ、喜んでいる。笑顔が見られて嬉しいよ。


「これ見て、思い出してね。俺様のこと。」

「…………?」

通気口の蓋を外す。案外簡単に外れるようだ。時間が無い、こんな単純な犯行はすぐにバレてしまうのだろう。足枷の無い鈴杏に、ここに入るよう促す。


「……行って。俺様もすぐ後を追うからさ、家に帰ろう。」

「……兄サマ、約束、して?絶対、絶対兄サマも来てね」

「ああ、約束しよう。……再会を、必ず。」

ほら行って。交わらせた小指を断ち切れば、その背を押して奥へ進ませた。戻って来ないよう、通気口には蓋をする。

第六話: テキスト

廊下から足音が聞こえる。座り込んで、壁に頭を預けて目を閉じた。

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第六話: 画像

バイバイ、鈴杏。どうか元気で。

扉が開く。




……………………




狭い通気口を這いずって進んで、何時ぶりだろうか、空を見た。

全く見覚えのない地だ。辺りは木々に囲まれ、奥まった場所にこの施設があるのであろうことくらいしか分からなかった。

どこに行けば良いのか分からない。覚束無い足取りで宛もなく歩いた。素足に鋭い石が刺さるが、こんな痛みはもう気にならない。

何度も後ろを振り返り、兄の姿を期待した。早く昔みたいに並んで歩きたい。帽子を抱え、おぼろげな記憶を辿る。家族の暮らしを夢に見た。

鈴杏の体は、既に限界を迎えていた。飲まず食わずで歩き続けられるはずもなく崩れ落ちるようにその場に倒れ込む。何故体が動かなくなったのか、白痴の鈴杏には分からなかった。

倒れ込んだ衝撃で、帽子を離してしまった。駄目だ、これは大事な物なんだから。大事な物なんだ、大事な。

力を振り絞って腕を伸ばす。しっかりと帽子を掴み、胸元で抱き締める。


……兄サマ、兄サマ。早く会いたい。まだ来ないのかな。早く来ないかな。楽しみだな。

第六話: テキスト

帽子を守るように、猫のように体を丸めると、落ちる瞼に逆らえず鈴杏は意識を手放した。

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第六話: 画像

【姚漢林の離別/姚鈴杏の別離】




____終演____



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映像が終わった。非道な人体実験を繰り返し受ける、よく知っているようで少しも知らない二人の人間の映像。

船で何が起きているか知りたいから。そんな好奇心で見始めてしまったことを、心の底から後悔した。


当事者である二人からすれば、これはきっとトラウマそのものだ。


映像の途中から、翠____リンシンは、映像を注視したままガチガチと歯を鳴らし、浅い呼吸を繰り返していた。続けて自身の包帯、右目の辺り……存在していないため、辺りとしか言えないが、そこを掻き毟っていた。上映中の暗いシアターでも分かるほどに顔色は失われていて、そこに快活な"煉音 翠"の姿は無かった。

映像が終われば、完全に記憶を取り戻したせいなのか焦点の定まらない瞳で何やらブツブツと呟いたと思うとその場に蹲って呻き声をあげはじめた。微かに聞こえる声を辿れば、痛い、痛いと繰り返している。……"船酔い"の、症状。

翠の傍に座っていたルークが悲痛な面持ちで翠を見る。あまりにも苦しそうなその様が、心配で堪らないのに金縛りにあったみたいに体はまったく動かなくて。ようやく絞り出した音が声になる。大丈夫か、なんて薄っぺらい言葉が声になる。

……そうして、声をかけた、その途端。爆発するように泣き喚いたリンシンに、彼女が発した言葉に、突き放すようなその言葉に、すべての温度が失われたような感覚に襲われる。


「いや……いや!もうこんなところいやだぁ、かえりたい、おかあさんのところにかえらせてよぉ……」


…………


"こんなところ"の人間が、彼女にどんな言葉をかけられるって言うんだ。



この映像でトラウマを呼び起こされ、存在しない痛みに喘ぐのはリンシンだけではなかった。


体中に残る生々しい傷跡が一体何なのか、鮫は常々疑問を抱いてきた。時たま痛むそれを見ないふりをして、汚い傷跡を隠して日々を過ごしてきた。

ああ、全部分かってしまった。全部思い出してしまった。扉の開く音が、今も耳元に残っている。視界の端で照明を照り返す刃物の幻覚が、今も見える。痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。痛い。

一瞬で何もかもが瞼の裏に戻ってきた。息が出来ない。きつく首を締められているようで、目の前が点滅している。ここに奴らがいないと分かっていても、されてきたことを自覚した途端に古い傷がひどく痛むのだ。胸の奥、心の辺りが、ひどく。


……自分自身で喉を締め、嘔吐きながら泣く親友を、ただ見ることしか出来なかった。こんな姿は見たことがない。彼のことを何も知らない自分に出来ることなどひとつも浮かばなくて。リビングで抱いた、助けに行けないことへの無力感なんかは比べ物にならないほどに、抱く無力感は大きかった。すぐ手の届く距離にいるのにこんなにも遠い。


……記憶とは、こうも人をおかしくさせるのか。

トロイは目の前の光景をひとつも信じられなかった。きっと全部悪い夢なんだと、目を見開いて足元を見つめている。

だからきっと、地獄も、隣から聞こえるか細い呼吸音も、隣から聞こえる呻き声も、全部ぜんぶ夢なんだ。はは、本当に、酷い夢を見ている。


現実なのだと主張するように、花瓶と鏡で切った指先がじくじくと痛む。だがきっと、これはただの夢だから。そんな痛みだって幻だ。



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第六話: テキスト
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